党員のみなさんへ

あ~、ブログ書くなんて、何億年ぶりだろう。

なんだか最近、「じぃくさんはどう思いますか!?」とか、「どう考えてますか!?」とか、党員のみなさんから質問をいただくようになった。なんかあったのかな?

僕としては、今別になにも感じていないし、どうも思っていないし、どうも考えていませんとしかいいようがないのが現状です。

まぁ、強いて言うなら、やはり人間、焦っちゃいけないと思うのです。もちろん慌ててもいけません。偏るなんてもってのほかではないでしょうか。業を煮やす必要もありません。

インターネットを利用した情報拡散(?)というのは、ものすごーーーーーーーーーーく地味で、とてつもな~~~~~~~~く時間のかかることだと思います。

でもそれは、米や野菜を販売するのだって、情報拡散という意味では同じです。知名度を上げて収益を上げるには、途方も無い時間と、誰もがやらなかったような創意工夫が必要です。つまり、ネットだろうがなんだろうが、なにかをするということはものすごく時間のかかることだと思うのです。

農業だってそうです。phバランスや団粒構造の崩れた土壌で無肥料伝統栽培を実践するには、少なくても5~8年の年月を要求されます。土がきれいになった後も、様々な工夫で整ったバランスを維持しなければなりません。とてつもなく根気がいる世界です。でも、多くの人はほんの数年であきらめるから、おかしなことになって、結果、肥料を入れたり農薬を撒いたりしなければいけないようになるのです。

昨今、時代はすごくデジタルで、ボタンを押せばなんでも結論が出るかのように見せかけられている世の中だと思います。ネットを使えば、ありとあらゆる正確な情報がすぐにでも、いくらでも手に入ると錯覚しやすい環境です。でも、実際はそうじゃない。答えがはっきりしないアナログ状態が正解であることは多々あるし、情報だって粗悪なのものが溢れかえっています。

僕がここ最近危惧するようになったのは、インターネット普及が発端となった社会の急速な情報化発展です。情報過多社会ともいえるかもしれません。

情報は答えでしょうか。また、情報と情報を組み合わせたときに見え隠れする結論めいたものは、本当に精度の高い判断材料となりうるでしょうか。僕は、一部の特例を除いて、そうは思いません。情報は飽くまでも情報でしかなく、判断材料のほんの一部に過ぎないと思うのです。

「ネットに書いてあったから」。そんな一言には、もはやなんの意味も付加価値もない時代にすでに突入しています。「テレビでやっていた」「新聞に書いてあった」と同じようなものです。

けれども今、多くの人は、ネットの急速的な普及もあり、情報=答えと言わんばかりに、頭で考えることだけがすべてになりつつあるように思えてしかたないのです。とにかく、ありったけの情報や知識を頭のなかに詰め込み、分かったつもりになっている。そんな姿に見えてしまうことがあります。そんな人に多く出会います。そして、僕もつい最近までそうでした。今もまだそうかもしれません。

僕は一時期、情報や知識にうぬぼれ、本線・本筋から脱線していました。

それを救い上げてくれた言葉のひとつ目は、コシミズさんの「脱線すんなよ」という暖かで気楽なひと言でした。

そしてもうひとつは、真の農業とはなにか、その真髄を包み隠さずに教えてくれた恩師のひと言です。

「君みたいに頭で考えることばかりで、体もまともに動かせないような人間は使い物にならないなぁ。今の若い人は頭が良すぎる。もっと遊びなさい。」

使い物にならないというニュアンスにはすごく温かみがありました。そしてこの「遊べ」ということを、恩師は今でも僕に言ってくれます。「おい、遊んでるか?」と。

僕には最初、「遊べ」という言葉の意味がよく分かりませんでした。それを正直に伝えると、「ほら、だから遊びが足りないっていうんだよ。頭で考えてる」と、ニコニコ笑いながら恩師は言いました。そして恩師は、情報過多で頭がガチガチになってしまっていた僕を、カラオケやレストラン、人には教えられないような特別な場所にまで連れて行ってくれたのです。そしてひとこと、「遊ぶのは大事だ」と言いました。

でも、この「遊べ」という言葉には、表面上の「遊ぶ」という意味だけではありません。

それは、本格的に農業に従事するようになって少しずつ分かってきました。恩師の言う「遊び」とは、余裕のことでもあり、余白でもあり、いつ何時なにがあっても大切なことを瞬時に判断して考え、結論を出せることができるように、普段はのほほんとしていろ。考えるなという意味もあったのです。

これは、きっと受け取る人によって意味合いが違ってしまうと思うのですが、僕は恩師から言われる「遊べ」の意味は、今でも日々追求しているところです。

少し話が脱線してしまいましたが、僕が言いたかったのは、遊びが無くなり、頭の中が知識や情報で一杯いっぱいになってしまうと怖いことになるということです。知識や情報ばかりで、肝心な体験・体感・認識・意識の欠如していた僕は、すでにその怖さを体験しました。人間に本来与えられている、五感を使わず、デジタルな情報だけで思考を固めていたことに気づいたんです。だからこそ今の僕があるわけです。

コシミズさんを見てみてください。あれほど遊んでいる人も珍しいのではないかと思っています。ネットジャーナリストとはいいつつも、氏には人にはあまり見せない側面があり、それは、情報や知識だけに偏らない実体験の部分だと思います。そして誰より、「遊んでいる」わけです。それがあるからこそ、あの躍動感があり、見るもの・聞くものを疲れさせない講演会が行えるのだと思います。

脱線ついでに、もうひとつ違った側面の話をさせてください。

随分前にもどこかに書いたのですが、僕は、「本筋」を忘れることほど怖いことはないと考えています。

本筋とは、原点であり、原則でもあり、「礼節」であるとも思っています。

たとえば、最近読んだ桜井章一氏の著作「世の中の掟をぶちやぶれ」という本に、「いいこと病」という言葉が出てきました。

ちょっと長いですが、引用させてもらおうと思います。

(以下引用)

健康とか良い学びや教え、良い選択や行動というものがある。しかし、良いと思うことでも囚われたらおかしなほうにいってしまうことがある。
私はそれを「いいこと病」といっている。歴史を振り返ってみれば、いいことを信じて戦争が起き、大量虐殺に行きついてしまったこともある。
かつてヒトラーは、完璧がいいことだと囚われ、それを純粋なまでに行動に変えた。完璧は良いか悪いかと言えば、常識で考えればいいことの部類に入るのだろう。しかし、そこに囚われたヒトラーは、ナチス以外を排除し、ゲルマン人以外を排除し、完璧を目指すために第二次世界大戦を起こしてユダヤ人を大量虐殺に導いた。ヒトラーも善の一歩から道を進めた。しかし、歩数を重ねることで巨悪の姿を歴史に残してしまった。むしろ私は、いいことを純粋に突き詰めた結果が、人から見れば狂気に走らせただけなのではないかと思っている。
人はいいことに囚われると、己の都合や主義、思想で異なったものを抹殺してしまう。戦争はそうした極端な例であると思うが、われわれの生きている日常もさほど変わりない。極端な健康信仰、極端な教育偏重主義、極端な成功哲学、マルチ商法や宗教もそうだ。
こうした正しいという思い込みの囚われは、自然に対しても同じだろう。たとえば、土は人間も必要とするが、虫たちも必要としている事実は排除されてしまう。互いが共有しあって土が成り立つのに、虫を殺すことが自然を支配するうえでは正しい選択なのだと思っている。一方で、自然と共生することこそが人類にとって必要だと、変な自然主義者が生まれる。
親と子の関係、教育の場ですらそういったことがゴロゴロ転がっている。良し悪しで判断して子どもを育てたとしても、それが裏目に出て、真面目でいい子だったのが、ある日大きな犯罪を起こしてしまうこともある。そうした要因も、一つはいいことだと囚われた「いいこと病」にある。

(中略)

あなたは善意ややさしさというものを大切にしているかもしれない。会社の中では部下や同僚にやさしく接したり、家庭に帰ればいい父親や母親であったりと、今の人たちはたしかにやさしい人が多い。
しかし、善意ややさしさは大切だという発想を続けていると、それは病気になる。心の病になるのだ。ふつう病というと、悪いことの結果で起きると感じるだろうが、悪いことばかりが原因ではない。
いいことをし続けた結果起こる「いいこと病」というものもある。いいことだけを追いながら、その結果、病気になっている人もいるということだ。
たとえば、あちこちの講演会に行って、ありがたい話を聞いてまわったりする人、宗教にはまる人、この食べ物は何々に効くと健康食品を求める人……。そうやっていいことばかりに囚われている人がいる。そういう人は、実は一種の病とも言えるのだ。
多くの人が、いいことをすべてやっていればOKだと勘違いしている。しかし、世の中いいことをすれば結構というわけではない。
たとえば、いいことだと勧められて宗教に入った結果、その家族が悩んでいるというケースなんてたくさんある。今は誰もが不安になっている社会で、宗教などはこうした心の隙間に善意と称して入り込んでくる。その結果、まわりの人を余計に不安に陥れているということに気づいていない。
善意ややさしさとは別に、頑張るとか熱心とかいうのも同様に危なっかしい。真剣だとか一生懸命だとかいうのも危なっかしい。
私が感じる危険とは、そうした心の偏りである。たとえば、何でも熱くなる人というのは偏っている証拠だ。
たしかに、一つのものをやるためには熱さや一生懸命さというのが必要で、何かに入れ込まなければ何事も成さないと思う。ほかのものに目を向けていたら何一つ物事を成せないというのも真実だ。しかし、一つの分野だけが立派で、あとは何もできない人間が、果たして立派なことだろうか。
モーツァルトにしろ、ベートーベンにしろ、音楽はたしかにすごいのかもしれない。けれども、彼らはやはり病になった。ゴッホにしたって同じ。人間として失格というような部分が生じている。それは一種の偏りの結果であって病気ということだ。だから、一つのものに打ち込むというのは、誰もが目指すべきものではない。
善意ややさしさも、熱意や頑張るといったことも、行きすぎればすべて「いいこと病」になる。そんな考え方は一度捨ててみることだ。人間はやさしさの裏に残酷さを持っているし、熱意の裏には怠惰な部分を持っている。
そのことに気づいている人間は、決して心の病気にはならない。

(以上引用)

(ここでは、ヒットラーがユダヤ人だとか、大虐殺はなかったとか、そういうのは置いておいていただき、飽くまでも話の例えとして受け止めていただければ幸いです。)

ここで僕が言いたいのは、良いことだからとか必要なことだからといって、本筋や主を忘れた行動を取っていいのかということです。(今回のことに関しては、敢えてこれ以上はいいません。)

ここで、僕が一時期ハマっていたカルト栽培を例にしてみましょう。

「カルト栽培はいいことだ! 安全だ! 安心だ! 広めよう!」といいますが、では、いいことをやっている会社なら法律を破ってまで人を雇っていいのかといえばそうではない。いいことをやっている会社の存続を守るためなら、消費者に対して偽装を行ってもいいのかといえば、やはりそれもそうではない。(当たり前だ。)

「いいこと」を標榜する組織は、たいていその「いいこと」を盾にして、社会的などの組織も当たり前に行っていることをないがしろにしがちだと思います。結果組織は、知識や情報を頭に詰め込み、さもそれが真実かのように振舞うことしかできない、視野の狭い偏ったさみしい人間たちの巣窟になります。組織のカルト化といってもおおげさではないでしょう。彼らは、なんの体験や経験もなく、ただ人から聞きかじった情報や頭の中でごちゃまぜになった知識だけを武器に前進しようとしますが、そんなものはただのうわべであり、中身のない薄っぺらな活動だと、第三者からは簡単に見抜かれます。最終的には、世の中の誰からも相手にされなくなってしまう悲しい道を歩むことになるでしょう。農業をやったことのない農業の本質を知らない人たちが、まるで自分たちは農業のすべてを知っているかのように、頭と知識・情報だけを頼りに、「自分たちはいいことやってる!」と、農業を語るようになってしまったのですから、恐ろしい話ですね。

このように、いいことだからと言って、ではなんでも許されるのかといえば決してそうではなく、まずは当たり前にやるべきことをやれるようにした状態ではじめてスタート地点に立てるんじゃないの? ということです。

今回のデモに関してだってそうです。

そもそも、コシミズさんは以前から、「独立党は飽くまでも非暴力の組織であり、デモや街宣活動などの暴力的かつ野蛮な行為は一切行わない」と宣言しています。後援会の一員である以上、それを「忘れた」「知らなかった」では済まされません。

僕は別に、独立党の方針を党員として支持しているわけではありません。ただ単に、僕も個人的に「そうだ」と賛同できるから賛同しているに過ぎないのです。

なぜ僕が、「デモは暴力的だ」というコシミズさんの意見に賛同しているかというと、情報というのは、それを欲した本人が能動的に取得しに行かなければ意味がありません。受け取る側が必要としてもいない情報を押し付けても、それにはまったく意味がないどころか、相手に不愉快な思いをさせてしまう可能性さえあるというのが僕の考え方だからです。

今は、「知らないではいさせてくれない世の中」です。これは、資本主義から生まれたマーケティングなんかもそうでしょう。本来は消費者・購買層が必要としていないものの需要を、メディアを使って無理やり焚きつけ、最終的には物を売る。そんな時代です。

たとえば、街中を歩いていれば、自分自身がまったく興味のないアイドル歌手の歌が、いつでもどこでも流れている。知りたくもない外資系保険会社のガン保険の広告が、電車の社内広告として車両中に貼り巡らされている。家に帰ってポストをあければ、大量のチラシが頭上から降って落ちてくる。どれもこれも、情報の押し付けです。なぜならそれらはすべて、僕が一切必要としていない無駄な情報だからです。

デモにもこれと同じ側面が一部あると僕は考えます。

確かにネット上の活動だけでは得られない効果がデモにはあるのかもしれません。政府や行政に訴えかける手段の一つになりうるのかもしれません。けれども、ではだからといって、街頭において大勢で練り歩き主張することが、本当になにか大きな効果を成すのでしょうか。僕は正直疑問です。そう思う理由は上記したように、デモも、広告チラシやテレビCMと同じで、情報の押し付けでしかないからです。

デモのテーマになっていることに興味のない街ゆく人たちにとってデモは、恐らく「うるさいなぁ」とか、「なにやってるんだろうなぁ」とか、せいぜいそんなレベルの受け取り方が関の山ではないでしょうか。一切興味のない人たちがデモを見ることによって物事の真相に興味をもつ可能性は、僕はあまり大きくはないのではないかと思うのです。もちろん必要以上に大声を張り上げ、街じゅうを練り歩くことで、下品でおかしな印象を与えることくらいはできるかもしれませんが……。

もちろん僕は、デモ活動そのものを非難・否定しているわけではありません。ただ、デモにも前向きな可能性は多少あれど、少しでも誰かに「うるさいなぁ、興味ないよ」と思わせてしまうような活動は、やはり、場合によっては避けるべきではないか、と思うわけです。そして、資本主義経済の産んだマーケティングという手法と同じ情報の押し付けは、あまり好きではありません。

「独立党が主催だと思ったから……」そんな声も聞こえてきました。しかし、そもそも独立党を主宰している本人が、「デモは下品で暴力的。そんなことはうちはやらない」と昔から言っている以上、それを誤認してしまった側にも少なからず問題点がないとは言えません。そもそも、天と地がひっくり返っても、独立党主催のデモなどは、今後も存在することはありえないはずです。独立党は、そういう行為や表現活動をするための組織ではない。それが本筋ではないか。僕はそう思います。

仮に、今回のデモやデモのテーマが、今このタイミングで本当に必要なもの、つまり「いいこと」であったとしても、やはり本分・本筋・主・礼節を忘れてしまってはいけないのではないでしょうか。忘れてはいけないものを忘れてしまえば、結果があまりよくないことへつながってしまうことは、いたし方がないと思います。

忘れてはいけないものを忘れてしまう原因のひとつは、恐らく、桜井章一氏のいうところの「いいこと病」にかかってしまうからではないでしょうか。「いいこと病」に感染すると、必要以上に物事に善悪をつけたがり、排他的になり、あらゆるものが偏り、おかしなことになっていきます。食事が偏ることでガンなどの病気にかかることと同じかもしれません。

世の中には、本来善も悪もありません。それは、農業と土、作物の姿を見ればあきらかです。自然界にも善悪はありません。

独立党、そして、そこに参名している僕を含めた党員のみなさんはどうでしょうか。「いいこと病」にかかってはいないでしょうか。

情報や知識で頭がガチガチになって、体を動かすことを忘れてはいないでしょうか。

情報も知識も、頭で考えることも、確かに大切です。でも、体や五感を使うことを忘れてバランスを崩してしまっては、情報と知識は、増えた分だけ人を狂わしてしまうだけのものになってしまいます。

冷戦凍結後、アメリカ軍によってインターネット技術が公開されたのも、もしかしたら世の中が情報過多で偏っていくのを見越した上でのこともあったのではないかと少々危惧しています。

もしも自分が「いいこと病」にかかっていると思われるならば、主催者であるコシミズさんの「遊び」を見て、参考にしてみてはいかがでしょうか。

「いいこと病」に感染者が出てしまえば、悲劇は何度でも起こり得ますよ。

僕も、つい最近まで羅病していました。

今は、ありがたい恩師たちのおかげで、少しずつ完治へ向かっています。

「頭使わず体動かせ。そして、遊べ」

恩師のそんな言葉が、毎日僕の目の前を過ぎります。




















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ご無沙汰しております。

 読者のみなさん、本当にお久しぶりです。ご無沙汰しております。

 ここまでブログを放置したのは、初めてでしょうか。

 いろいろとご心配をおかけして申し訳ありません。

 たくさんの方にコメントをいただいていたにも関わらず、大変失礼いたしました。

 実は、約6年間連れ添った相棒である自作パソコンが故障。マザーボードが寿命を迎えるという事態になり、インターネットにアクセスする環境を失っておりました。

 また、新天地に転居し、ずっとメールの設定すらもしていないまま、今日にいたります。

 ですので、現在ここのプロフィール欄から飛べるメールアドレスは、すでに解約されたアドレスとなっておりますのでご注意ください。

 近々メール設定をやりますので、作業が終了次第お知らせいたします。

 非公開コメントにてメッセージをいただいているみなさんとは、ちょっとじっくりと腰を据えてお話しなければいけないこともありますので、もうしばらくお待ちください。

 今後は、もう少し更新頻度を元に戻していきたいと思っておりますが、

 

知り過ぎてしまうと、もうここには書けなくなってしまうことが多すぎて、非常に苦悩しているところでございます。

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