因果という言葉があるように、結果があれば、必ずそこにはなにかしらの原因がある。作用反作用の法則。これは完璧なる自然の法則のひとつ。誰にも否定することはできない。
例えば、人間同士の間になにか問題が起こったとするならば、そこには必ず原因がある。そしてその原因は、その関係が一対一のものなのであれば、どのような場合でも、お互いになにかしらの原因が、必ずある。
ふたつの原因がぶつかりあい、結果が生じたとき、当事者二人がお互いに取れる行動はふたつある。
ひとつは、自分ではなく相手側にある「原因」に焦点を当てて、そこを攻撃する。
もうひとつは、自分の持っている原因に焦点を当てて、それを取り除く。そして、相手には、まず自分から詫びていく。
原因はお互いにあるのだから、どちらの手法を取るかは本人次第。ただし、相手に原因を求めるのはとても楽な道で、しかも攻撃性・排他性を伴うから、非常なエネルギや時間を消耗し、根本解決に至らない場合も多い。なぜならば、相手の原因を攻撃しても、自分が抱えている原因はなにひとつ変わらないからだ。
逆に、自分に原因を求めることはとても難しいし、とても苦しいことだと思う。でも、お互いに、原因を内に求めることができるならば、攻撃は必要ないし、なによりも問題はスムーズに解決に向かって動いていくことが往々にして多い(と思う)。
もちろん相手にも必ず原因があるわけだから、そこを言及することが悪いことではないと思うし、その姿勢が、生じた問題を必ずしも解決しないとは思わない。
ただ、「あいつが原因だ」「あれが悪い」とぶつかり合うよりも、お互いが、内に原因を求める姿勢のほうが、問題解決にかかるまでのエネルギや時間は、相当に短いということを、少なくとも僕は僕なりに、自然農法栽培の原理原則から学んだ。
なぜならば、相手に原因を求めるということは、自分を善とし、相手を悪として、自然界には存在しない善悪の分別という意図的な「人間の判断」を盛り込まなければいけないシーンが、どうしても増えてしまうからだ。
他人を落として自分を上げるのは、とても楽なんだよね。
もちろんすべてがすべてそういうケースではないけれど、それでも僕は、難しくて辛いかもしれない「自分に原因を求める姿勢」を忘れたくはない。
なぜなら、「原因を内に求める」姿勢こそが、自然や土に近づいてゆくための大切な要素のひとつだということを確信したから。
容易なことではないけれど、日々、挑戦していきたい。
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