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2008年10月

自然の流れと微小な緊張感

(肥料を与えられずとも、真っ赤に育つりんごの実。常識がどう言おうと、きぞんかがくがなにをがなり立てようと、そんなことはお構いましに、自然界はその営みを、紡ぎ続ける。そして、無肥料無農薬のりんごの実は、今日もその実を赤く染めていく。)

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 流れが来てる。自然界の流れ。

 ついこの間も、日本列島の真上を、雲が東から西に流れたんだそうな。

 つまり、全ての流れが、日付変更線に一番近い、世界で一番最初に夜明けを迎える日本という国を中心に、東から西へ流れようとしているということ。

 2008年、8月。

 「9月には大変なことが起こるよ」

 とある人が僕にそう告げた。

 2008年、9月。 

 リーマンブラザーズ証券が破綻した。

 日本の株が、予測どおり暴落を始めた。円高が止まらない。

 もう、1年前から決まっていた。

 でも・・・ 

 イギリス?

 ロスチャイルド?

 今の僕には、そんな風には全然見えない。

 仕組まれているなんて、思えない。

 ただ、仕組んだ存在があるのだとすれば、それは恐らく「宇宙」という名の、名も無き神様。

 名前があるのに、名も無い神様。

 コシミズさんの言葉を借りるなら、サブプラ大明神さま。あの人は、分かっていないフリをしながら、きっともう全部分かってる。今の流れが、どれだけ大きなものかを。そして、どうすればその流れを掴んで前に進めるかも。 

 最近の僕はいつもどおり忙しくて、リチャード・コシミズさんや独立党のことをガシガシ取り上げる心の余裕がないんだけど、最近の勉強会の様子を見ていると安心感がありすぎて、もうなにも言葉はない。この流れは誰にもきっと止められない。

 僕が今考えて、感じて、見聞きして、関わっていることなんて、今の世の中の流れにとっては微小なもの。

 誰もが自分で動いている様で、実は、動かされているに過ぎない存在。

 でも、鼻くそほじくってちゃぁ、先には誰も進めない。

 神様、サブプラ大明神さまは、今、きっとこう言っている。

 「お膳立てはワシがやったんだから、あとはお前さんたち人間で頼むよ」って。

 準備は既に整った。今後の流れは僕ら次第。マヂで、今後は僕ら次第。でも、やるべきことなんて本当に限られてるんだよね。目の前にある、真っ当なことを、ただやるだけ。取り組むだけ。表現していくだけ。でも、それが、後々大きなことに確実に繋がっていく。

 2012年。時間は、もう無い。残された時間は、本当にもう僅か。

 それを、一体どれだけの人が感じられているのだろうか。

 分からない。分からないけど、僕には僕でやるべきことがあって、それはいつしか僕に与えられたこと。

 自分で選び、与えられたこと。

 誰にでもある。この時代に、今を生きている人には、必ず与えられたものがある。やるべきこと、成すべき使命がきっとある。

 諦めたら終わり。

 人は誰だって、自分の思ったところに行ける。思ったように、なれる。

 想いが強ければ強いほど、工夫を重ねれば重ねるほど、必ずそこに行ける。 そういうように出来ている。

 それが、流れ。

 掴めるか、掴み損ねるか。ふたつにひとつ。

 そんな、微小な緊張感を胸に、僕はもう少しだけ前に、ちょっとだけ前に、進む。

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完全なる一体と、その芸術性

 (え?もうりんご畑の写真は飽きたって?まぁまぁ、そう言いなさんな。)

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 30年以上、肥料も農薬も使わずにりんごの自然栽培をしている木村さんのりんご畑。

 僕が本当に久しぶりに、息を止めてシャッタを切って撮影してきた写真をよ~~く見ていただきたい。

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 とにかく多種多様の雑草(?)がびっしりと生えていることに気づかれないだろうか?

 慣行栽培のりんご畑の写真を撮り忘れてしまったんだけど、木村さんのりんご畑は隣のふつーの畑と比較すると、まるでジャングルのように荒れ果てていて、パッと見はまさかりんご栽培をやっているなんて思えないような有様。慣行栽培のりんご畑は、少ない同じ種類の雑草(?)がうっすら綺麗に生えていて、まるでゴルフ場にきたような景色が広がっていたのをよく覚えている。

 ところがどっこい。これが果樹の自然栽培の一番のキモのところなんだそうだ。

 今の僕にとってはまだ方法論的な部分はどうでもいいんだけど、この木村さんのりんご畑の草の生え方ように、本来自然界の仕組みは、一見違うように見える、人間にとっては区別の対象ともなってしまう多種多様な要素が、完全なる一体としてそのバランスを調和している。もちろんどれもこれも、材料源は「量子」。宇宙からきたパズルピース。

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 結局のところ、僕らの身の回りにある全てに、無駄なものは何一つとして無くて、全ては必ず意味があって存在している。

 その、自然界の根本的な仕組み・原理原則を根っこから理解すると、そこで初めて「原因に眼を向ける」という思考が生まれてくることを僕は過去に経験した。そして、ほとんどの場合、原因は自分にあったことに気がついた。

 多くの場合人は、原因を外に求め、それらを極度に排除・除外するような考え方を持ってしまう。でもそれというのは、農薬や化学肥料と全く同じ、ユダヤ的な考え方。

 どんなものも必ず理由や原因、必要性があって存在していて、それらをまず最初に素直に受け入れることをしなければ、真なる「根本」は決して見えてこない。本質が見えないのだ。

 必要なくなったものは、自分がなにか力を加えずとも、必然的に消えていく。

 畑に生える草も、病害虫も、意味があるからこそ、そこに発生する。それを、人為的に排除するのが慣行農法。自然に観点を置き、それらを受け入れていくのが自然農法・自然栽培。

 そして一番面白いのは、それら自然農法に求められる自然感は、決して農業のためにあるものではなくて、人それぞれの生き方や人生観、考え方を形作ってくれるということ。

 いうなれば自然農法は、人が自然を捉え感じる本来の能力を取り戻すきっかけを与えてくれるものであったりもする。自然に還える、土に向かういうのは、それだけ大きな意味合いを持っているのだ。

 僕が「自然農法・自然栽培は楽しい」と言う理由は、まさにそこにある。

 長い間忘れていた、原点に帰れるんだ。

 僕にとっての原点は、まさに本質と同義。

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世界で一番最初に日の出を迎える国

 (こんなこと書いていいのかな・・・・怒られたら削除しようっとw)

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 「日本は日付変更線に一番近い国。世界で一番早い夜明けを迎えるのは日本なんです。その日本の、我々日本人が意識を変えて、世界を作り上げていく必要があると思うんです」

 そうおっしゃるのは、自然栽培りんごですっかり有名になってしまった木村秋則さん。僕は木村さんのこの言葉を聞いた瞬間、一つだけ準備していた質問を取り下げた。聞く必要がないと思ったからだ。

 木村さんがNHKのプロフェッショナルという番組に取り上げられてから、どれくらいが経っただろうか。普段テレビを見ない僕も、あの日だけは珍しく、冷蔵庫の上に眠っているテレビを持ち出して番組を見た。

 木村さんは、気がつけばあっという間に、自然農法界のスターのような存在になってしまった。

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 とにかく明るくて、朗らかで、笑顔の耐えない人、木村さん。直接お会いしてお話することで、この人がなぜここまで人気が出るのかの、本質的な理由が分かった。

 「人柄」。

 その一言に尽きる。

 周りはどうであれ、この人にとっては「有名」とか「テレビ」とか、そんなことほとんど関係ないんじゃないかなって思った。

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 でも僕はね、そんな明るい人気者の木村さんの、もっと奥の奥にある、底知れぬ自然感をちゃんとキャッチしてきたよ。あの、めちゃめちゃ愛嬌のある笑顔の奥に、とてつもなく大きな鋭いものを持ってる。本物。

 でも、よくよく考えてみればそれは当たり前のことで、自然農法・自然栽培は、本物じゃなきゃ勤まらない。

 今、世の中的には木村さんは有名人で、人気者で、まるでスターのような扱いだけれど、僕にとっては、自然栽培に携わる人たち全員が憧れの存在だ。木村さんだけが凄いんじゃなくて、自然農法、自然栽培に携わることのできる人が凄いんだと思う。

 「自然」という言葉は非常に曖昧だし、定義付けの難しい言葉だけれど、やはりその自然界の力を最大限に活用して作物を作るからには、相当の洞察力や観察力、自然感が求められるものだと思う。

 でも、おもしろいのは、最終的にそれらの自然感という感性は、農業分野にだけ適応するものではなくて、ありとあらゆるジャンルに応用ができるということ。自然農法・自然栽培を通して、土作り(育土)を通して人を育てるっていうのは、まさにそのことなんじゃないかな、なんて。

 僕にとって自然や土に向かう、還るっていうのは、結局のところ、原点に思いを馳せて、それらを紐解く自然な感性を取り戻すっていうこと。自然な感性を取り戻すことさえできれば、後は、どんなものでも、それまで見えなかったものがボロボロ見えるようになる。別に農業に限ったことじゃないし、だからこそ自然農法・自然栽培に関わるということは、原点でもあり、楽しいのだと思う。

 自然農法家の人たちは、誰もが必ず自分なりの自然感をもっていて、その自然感に導かれるままに生きている。どの人も個性が強くて、出会った人の能力を分析・解析して、蓄積していく手法を取る僕にとっては、これほどまでに幸せなことはない。自然界という一本の柱に対しての、色々な人の捉え方を掴むことができるんだから。

 以前も書いたけれど、僕は、人や物などの「何か」に傾倒することはない。

 でも僕は、大勢の方と会って、話をして、お金では決して買えない貴重なものをもらってきた。だからこそ、今の僕がある。

 つまり、大切なのは、「自然に還ること」。

 誰かに学ぶのではなく、自然に学ぶこと。

 「誰か」は、「自分」と同じ、自然の申し子。

 色々な「誰か」の自然感を通して、「それじゃあ自分ならどうするか」というものを模索していくことが、なによりも大切なんだと思う。

 見るべきものは、自然。

 還るべきところも、自然。

 本質を見極めろ、ということなんだと思う。

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ブログは僕の三分の一

(こんなに気合を入れてシャッタを切ったのは本当に久しぶり。何百枚撮ったことだろう。当分は木村さんのりんご畑の写真が続きます) 

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 僕のブログを読んでくださる方を、大きく二分すると以下の二つに分類される。

  • ブログの文章を僕の一部と認識してくださり、僕の人間性の本質を鋭く見抜く人
  • ブログの文章を僕の全体として認識して、全体像の把握を怠る人

 「なにを偉そうに・・」と思われるかもしれないけど、実際にそうであることは非常に多い。

 以前にも書いたことではあるけれど、僕がここに書く文章は僕という人間のほんの一部、せいぜい三分の一の具体化現象であって、僕そのものでは決して無い。

 ところが中には、ここの文章が僕そのものであるかのように勝手な解釈をして、勝手な想像を膨らませて、勝手な感情を抱く方は、未だに後を絶たない。

 人間の本質というのは、実際に顔をあわせて、目つき、顔つき、口調、表情、服装、歩き方などの、非常に複雑多岐な要素をしっかりと観察した上でようやく少しだけ見えてくるものであるにも関わらず、人は時として、一部を全体として即自的な解釈をしてしまう。もちろん僕だってそういうことはある。

 ただ何度もいうように、日々日常的に自分の目の前に現れる全ては「部分」であり、その「部分」の温存と組み合わせこそが、それぞれの結論に結びついていく大切なステップなのだというのが僕の考え方である。

 僕はブログじゃないし、ブログは僕じゃない。

 僕は文章じゃないし、文章は僕じゃない。

 僕がここに、「AはBである」と表現することはいとも容易い。けれども、僕が実際に「AをBだ」と思っているかどうかは、実際には文章だけでは分からない。

 少なくとも僕という人間の本質はここにあって、ここにない。

 どこにあるのか。

 それは、僕にも分からない。

 ただ、一部を一部として認識していただければ、これほどまでに幸いなことはないというだけの話ではある。

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ももちゃん

 「おにいちゃん、やさしいね」

 「いんや、そんあこたぁないよ」

 「ん~ん、おにいちゃんはやさしいひと」

 「ももちゃんはなんでそう思うの?」

 「だっておにいちゃんやさしいんだもん」

 「照れるなぁw でも、お兄ちゃん怒ったらお母さんより怖いかもしれないよ」

 「じゃあおこってみて」

 「ん~・・・」

 「ほら、おにいちゃんはおこらないし、やさしいし、うそつけないもん」

 「どうしてわかったの?」

 「わたしにはわかるの」

 「ももちゃんはすごいね」

 「おにいちゃん、またあえる?」

 「ももちゃんがいい子にしていれば、きっとまた会えるよ。いい子にしていれば、沢山いいこととか、いい人が集まってくるんだよ」

 「わるいこだとどうなるの?」

 「悪い子だと、沢山嫌なこととか、悪い人が集まってきちゃうんだよ。おにいさんにも会えないかもしれない」

 「じゃあもも、いいこにしてる!」

 「お父さんとお母さんのいうことをちゃんときいて、ご飯もちゃんとよく噛んで、いい子にしてるんだよ」

 「うん!」

A

 木村さんのりんご畑で出会った5歳の女の子「ももちゃん」。自分の背では届かないりんごの実に必死に手を伸ばす姿が、今でも印象的に頭の中に残ってる。

 見るに見かねて僕がりんごを採ってあげると、

 「おにいちゃんありがとう。ももちゃん、げんまいさいしょくしてるんだよ!」

と、突然言い出した。

 「おぉ、そうなんだ。おにいさんも玄米菜食だよ」

 そういうと彼女は、「わたしといっしょだね!」とうれしそうに微笑んだ。

 その笑顔と眼差しは、言葉では言い表せないほどに澄んでいて、僕はふと、「子供とはここまで美しいものだったのか」と思い知らされた。

 一体、子供のなにが美しいのだろう。

 心か。

 やはり、心だ。

 まるで、雪の降り積もった草原のように、汚れなく、ありのままの無垢なその形。僕が、ほんの少しだけ忘れかけていたものが、ももちゃんの眼の奥底には、きれいにそのまま残っていた。

 純真。

 無邪気。

 言葉ではなんとでも言える。

 でも、あまり言葉での解釈は好きじゃない。

 ただ、彼女と接した数日間で、僕は「心とは一体なんであるのか」ということを、改めて考えさせられるいいきっかけを頂戴することができた。

 子供は、全てをありのままに見ている。色眼鏡を掛けていない。

 僕は今でこそ子供に好かれる「おにいちゃん」になってはいるが、昔はそうじゃなかった。

 子供は、知っている。

 なにが正しくて、なにが間違っているのか。自然的に分かっている。

 幼くて、なにも知らない、子供の心。

 その心にしか見えないものが必ずあって、それが、きっと、本来のあるべき心の姿なのではないか。そう思った。

 子供は美しい。

 美しい、木村さんのりんご畑。

 自然栽培。

 自然栽培?

 未来。

 こども。

 子供こそ、未来・・・・

 僕も、昔は子供だった。

 生まれたときは、誰もがもっていたもの。

 それを、いつの間にか僕は、どこかで落としてしまったようだ。

 そんな、汚れきってしまった僕の手を必死に握るももちゃんの、小さな小さな手。

 小さい手なのに、僕よりも小さな手なのに、僕よりも大きなものを、彼女はまだ、しっかりと握り締めていた。

 また、いつか、会えるよね。

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証拠

 「信じることはむずかしい。だが、信じなければ、何もできない。」

 小吹伸一

 小吹さん、いいこと言うなぁ。

 ということで、

 「じぃくさんはなにをもってユダヤとか、朝鮮人とかいうんですか?」

 と聞かれて僕も困ってしまったことがある。

 なぜなら、僕自身の手元には池田大作や小泉純一郎が朝鮮系の血筋をもった人間であるという「確固たる証拠」などなにもないし、断言することなどできないからだ。

 そう書けばきっと、「んじゃぁ証拠もないのに適当なこと書くなよ」と言われてしまうだろう。

 確かにそうだ。おっしゃる通り、僕はいい加減な人間。

 ただね、一つ思うのは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット。この程度しか与えられていない僕ら一般大衆が、確証をもった情報を果たして一生のうちどれくらい手に入れることができるのだろうか?ということ。

 そりゃぁ身近で些細な日常的なことであれば、ある程度時間をかければ確証を得られることはいくらでもあるのだろう。ところが相手は世界を股にかける権力集団「国際金融資本」だ。そんな連中相手に、一個人が確証をもった100%の事実情報を入手することができるだろうか。少なくとも僕には無理である。

 とにかく今の世の中嘘だらけなのよ。

 「証拠」が嘘であることなんて山ほどあるし、「証拠がある」ということが嘘であることだって腐るほどある。

 テレビを初めとする既存メディアが報道していることは、常に証拠があって、事実で、現実に存在する事象なのかな。メディアで「在る」されていることは本当に「在る」のかな。メディアで「無い」とされていることは本当に「無い」のかな。僕にはそうは思えない。捏造なんていくらだってある。

 それに、証拠がなければなにもできないというのであれば、僕ら大衆はいつまでたっても彼らの言うなり。証拠をつかめることなんてほとんどないし、そもそも「証拠があること」なんて、世の中には何一つだってないというのが僕の考え方。

 ユダヤ国際金融資本のことにしても、カルト宗教のことにしても、千島学説のことにしても、自然農法のことにしても、僕にはなんの証拠や確証もない。

 でも、証拠がなくたって見えてくるものはいくらだってある。

 だからこそ、今の僕が、とりあえず、「在る」。

 世の中に存在する全てのものは、量子やなんやらで密接に複雑に繋がっていて、全体像が自然界の流れとして蠢いているもの。部分ではなく、全体。部分だと思うのは、ただそれを人間が勝手に部分として切り取っているだけの話で、本当はみんな一緒。だから、なにかを見るには、他の全く関係ない要素も全て加味した上で判断しなければいけない。そして、それを弁証法というのである。

 だから、ユダヤ人と朝鮮人が日本(世界)を支配していると言ったって、全体像はそんなに簡単なものじゃない。ものすごく複雑な事情や、歴史的な過程的構造が関与しているわけだし、一口には語れない。表面的に世界の構造を今日知った人は、「なんでお前はユダヤとか朝鮮とか言うのだ!人種差別か!?」と思われるかもしれないけれど、それは自分自身で情報を集めて、組み合わせて、全体像を把握してみれば、大まかには見えてくることだと思う。僕だって「ユダヤ人と朝鮮人が日本を支配している」なんてことを端的に表現できるようになるまでには、真の構造(それにだって証拠なんてないけど)を知ってから丸1年はかかったし、全体を把握するということは、そんなに簡単なことじゃあない。

 ただ僕は、単純に分かりやすくそう表現しているだけのことであって、「ユダヤ人と朝鮮人が悪なんだ!」などとは微塵も思っていないことだけは理解して欲しい。 ユダヤ人と朝鮮人が世界を支配しているわけではなくて、世界を支配しているのが、一部のユダヤ人と朝鮮人なだけである。

 僕は人種差別をするつもりは全くないし、そもそも人種なんていう「分別」そのものが自然界において無意味なもの。ただ、社会的な構造や歴史的な成り立ちにおいて、民族というものの区分があるのは致し方の無いことで、それを長い歴史の中で上手く利用して操作してきたのが、国際金融資本の連中であることは確かだと「思う」。

 以前にも何度か書いたことではあるけど、どんな民族だって嫌なヤツは嫌なヤツだし、いいヤツはいいヤツ。たったそれだけのこと。

 ただし、世の中を支配している連中(という区分も意味はあまりないんだけど)は、歴史的、宗教的、経済的な背景から、色々な繋がりを持って動いていて、それは全体像を把握していかなければ見えてこない構造。

 そして、その支配構造において利用され、搾取され、迫害され、侵害されてきた一番の被害者は、本物のユダヤ人と朝鮮人の人たちなんだ。

 だから、事実や真実は、もしかしたら一時的に人を傷つけるものかもしれなくても、やはり僕は「本当のことを知る」ということの意味を、これからもずっと考え続けていきたいし、発信し続けていきたい。

 なぜなら、全てを知った上でなにかを考え、感じ、行動することと、なにも知らず、知らされずに、ただ漫然と、作られた枠のなかで生かされ続けることは、全く違う結果をもたらすものだと思うからだ。

 事実や真実は、証拠や論拠の上でなく、指標の上に成り立つ、それぞれの生き様のようなもの。

 大切なのは、自分がどう考え、どう感じ、どう死んでいきたいのか。

 なんか意味わかんないけど、いいたいことは二つ。

 証拠がなくても、全体像を把握することで見えてくることはいくらでもある。

 誰がどう傷つこうが、事実は事実として表現していく必要性がある。

 以上が僕の、いい加減で幼稚な人生観。

 なにが正しくて、なにが間違っているかよりも、自分がなにを感じ、なにに触れ、そして、どう死んでいきたいのか。

 僕にとっては、それだけで、十分過ぎる。

 

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夢にまで見たこの空

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 木村秋則さんの畑で自らりんごの実をもぎ、石山範夫さんの田んぼで稲刈りをしてきた。

 僕は今、夢にまでみた地にこうして立ち、愛して止まない自然栽培の作物たちと触れ合い、会話し、その恩恵を傍受している。

 なにかに導かれるように連れてこられてきたこの場所。この僕。

 僕は自ら望んでこの道を選び、そして選ばれ、こうしてここにいる。

 生きるとは、不思議なものである。

 「今まで、僕の心と体を作ってくださいまして、本当にありがとうございました。これからも宜しくお願い致します」

  たわわに実った稲穂たちに、そう言って頭を下げた。

 今の僕の身体は、この大潟村で出来たお米たちを血に変え、肉として、出来ている。

 身土不二。

 感謝の気持ち。

 絶対に忘れちゃいけない。

 そうすれば人は、自分が思ったところへ行き、願ったように必ずなれる。

 僕は今日、それを自ら体験・体感した。

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 「また来ます」

 そういって交わした握手。石山さんの手は、とても暖かかった。

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5年、生きられる

 緒方拳さんが「肝がん」で亡くなったんだそうだ。

名優・緒方拳さん71歳壮絶がん死

命をかけた役者人生全う

http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2008100802000157.html

 緒形さんは2000年から慢性肝炎を患っており、5年前にがんに悪化した。それでも「仕事関係の人には絶対に言うな」と、家族に“かん口令”を敷き、体調が悪くなった時だけこっそりと病院に通ったが、最後まで療養入院したことはなかったという。検査や食事療法を受けても、手術に踏み切ることもなかった。

 まだいまいちココログの使い方が分かってなくて(というか分かろうとする時間がまだ取れてない)どうすれば上手くリンクが貼れるのか知らないのでアドレスベタ貼り。

 まぁ、つまり緒方さんはガン治療に専念せず、5年間生きたということと捉えていいのかな。

 ものすごい元気だったのにガンと診断されて、まじめに入院して、たったの三ヶ月で逝ってしまった友人を思うと、今でも胸が痛い。あのときの僕は、彼になにもしてやれなかった。無力だった。もちろん、今でも無力。

 ガンに悪化した後5年間生き長らえた緒方さんも、生活習慣を改善すれば、きっとまだまだ生きられたのにな、とも思う。

 ガンは別に、怖くない。

 原因が分かって、それを取り除く努力さえ怠らなければ、決して怖くない。

 というか、病気なんてそもそも怖いものじゃないし、そんなものそもそも存在すらしない。

 あるのは自然界と、それに従事する人間の身体と精神。認識。食。農業。

 こころ。

 作り出されているだけ。

 病気も、それに対する恐怖も。

 全て作り出されてる。

 なにに?

 空気呪縛。

 常識。

 さあ。

 みんなで解こう、「ガン呪縛」。

 なんてね。

(それにしても↓のスポンサーリンク困ったな・・・・なんだか僕が回し者みたいだwwwwwwwwwwww。有料コース申し込みしてみようかな)

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「兄蔵」という人

 僕はときどき思い出す。  

 ぼくは、ふと、ときどき、おもいだす。

 あの日、あの時、あの場所で出会った人。

 あの人を思い出すと、そこにはきまってかならずぼくがいて、いまでも遠くで手を振っていてくれている。

 今日思い出したのは、12年前、池袋にあるアムラックスのどでかい外部 モニタに映し出されていた、あの人。  

 「ベース?」

 親に押し付けられた大学進学をはねのけ、音楽の道を目指した僕は、ふと足をとめて、画面に目をやった。

 画面に映っていたのは、渋いタバコ色のボディに6本の弦をあしらったベースギターを持った、あの人。

 初めてみる姿、初めてみる弾き方、はじめて聴く、音色。

 僕は気がつけば、東急ハンズの目の前、首都高5号線の下を横切る大きな交差点を足早に渡って、アムラックスのなかにかけこんでいた。

 気がつけば、声をかけていた。

 気がつけば、仲良くなっていた。

 僕が始めて影響をうけた「ベーシスト」、兄蔵。  

 僕はギタリストなのに、あなたに影響を受けた。 

 なつかしいな。もうあれから12年。

 あなたは今でも、あの日となにも変わらずに、あそこに立ち、音を、奏でていたんだ。

 変わらない、変わった、変わっていた、その音色。  

 今でも僕は覚えている。

 音楽に、迷っていた。人生に迷っていた。世の中に、迷っていた。

 そのとき、僕は、あなたに、出会った。

 いろんな話をした。楽器の話、お金の話、インディーズの話、メジャーデビューの話、音の話、音楽の話、人生の話、世界の話、未来の話。

 僕は今ここにいて、あなたはそこに、今も、居る。

 たったそれだけの事実が、僕は今、なによりも大きなことに感じる。

 僕はもう、弾いてない。僕が音を奏でることは、恐らく、もうない。

 ただ、あなたは今も、多分、たった今も、あそこで、こうして、弾いている。 

 音を、奏でている。

 12年という時間は大きい。

 でも、なにも、変わらない。

 そして、全てが変わっていく。

 あなたも、僕も。

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とんかち

 どれくらいぶりだろうか。久しぶりに「こらっ!」って怒られた。

 もちろん声に出して「こらっ!」って言われたわけじゃないけど、突如僕の頭に振り落とされたとんかちに、綺麗な星が舞った。

 本当に久しぶりの星だったんだけど、ちょっと前までは「こらっ!」って言われても、「え~、なんで俺が・・・?」と、どう客観視してもそうとしか思えない状況ばかりだったんだけど、今日は違った。

 なんというか、どれだけ自分を客観視していても、しているつもりでも、気がつかない内におかしなことをしてしまっていることというのはよくあること。それに、一瞬で気がつかされたというか、目を覚まさせていただいたというか、その理路整然とした流れと共にきた「こらっ!」という久しぶりのとんかちは凄かった。

 まるで、T屋で「小吹はダメだ。ロボットみたいに頭がガチガチでよ、融通が利かなくてよ。あいつは首だな!」と身振り手振りを加えて声高々に言い放ちながらも、瞬時の判断で運営部を廃止したあのときのリチャード・コシミズ氏の神がかり的な立ち居振る舞いのごとく、感服させられた。

 突然のとんかちは、僕にとっては愛だった。

 「主はなんだ」と問いかけられたとき、まるで推理小説の犯人が自分の推理とは全く違っていたときのごとく、「なんでそんなことに気がつかなかったんだろう」と、「当たり前」を「当たり前」に見失っていた自分を恥じた。

 全てが一瞬にして吹き飛ぶ、清清しい感覚。

 とんかち。

 やはり、自然農法・自然栽培に携わるって、素敵なことだ。

 そして、それに携わる人たちは皆、それ以上に素敵だ。

 そして、感謝を忘れちゃ人間終わりだ。 

 そう思った、秋の日の夜。

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自然農法 Q&A

 【独立党の皆様へ】

 党内に自然農法・自然栽培の本質的な意味合いが少しずつ浸透してまいりましたが、なにしろ自然相手の農法です。生産の現場や農家の方々の話を交えて考察しないと見えてこない部分が大きいことも事実で、私じぃくも、勉強こそしてはきましたが、実際の土や畑を見たことではじめて見えてきた部分も沢山あります。そして、まだまだ見えていないこと、知らないこと、学ばなければいけないこと、感じなければいけないことが山のようにあります。

 そんな未熟な何も知らない若輩者の私ではありますが、今ある知識や体験を最大限活用し、独立党の皆様に向けて、簡単ではありますがFAQを作成してみました。

 先日の勉強会では話せなかった部分も記載してまとめましたので、よろしければご笑覧ください。

Q.自然農法・自然栽培ってなに?

 肥料や農薬を一切使わずに作物(野菜・米など)を作る農法です。化学的なものを一切使わないため、土壌汚染、水質汚染など環境に負荷を掛けることなく作物を作ることが可能です。

Q.肥料も農薬も使わずに本当に作物ができるの?

 野に咲く花や山に聳える大樹が人工物を媒介せずに大きく育つように、本来米や野菜も人工的なものを使わずに育成することが可能です。植物は本来、太陽(日)、水、土壌(土)の三種類の自然界のエネルギで生育できるように設計されています。自然界の仕組みや成り立ち、サイクルは人間では把握しきれないほどに完璧です。

Q.でも作物が病気にかかったり害虫が寄ってきたりしたら、農薬を使わずにどうするの?

 畑の作物に病害虫が寄ってくる原因の多くは、畑に入れた肥料に含まれる「必要以上の窒素成分」だと見る向きが主流です。肥料を使わない自然農法の畑には必要以上の窒素成分が存在しないので、虫や病気によって作物が全滅することはありません。つまり肥料を入れないことで農薬の必要性が無くなるというわけです。肥料を入れて農薬を撒くことは、過食によって糖尿病や高血圧などの「病気」になった人間に薬を投与するのとどこか似ていますね。

Q.じゃあ自然農法の畑には虫(草)が全くいないの?
 
 自然農法を始める畑の多くは、それまでの慣行農業による施肥や農薬散布によって土壌が汚染されていますので、土壌内の毒素(「肥毒」という)が抜けるまでの数年間は、例え無肥料・無農薬の栽培を始めても、作物が病害虫にやられてしまうことはあります。
 
 慣行農業を自然農法に切り替えていく最初の段階に、肥毒を流し、土を清浄化し育てていく過程があるのですが、その過程ごとに必要な虫や草、病気が畑に出てきます。ただしそれらの現象は、土の浄化が進むことでそれらの種類が変わっていき、必要が無くなれば全て消えて行きます。これは断食や玄米菜食を開始したじぃくの顔や身体中にニキビや吹き出物ができ、約1年半ほどで元に戻ったのと同じです。溜め込んだ毒素を外に出すには相応の痛みが伴い、役目が終われば現象も消えて行くという自然界の摂理の代表的なもののひとつであると捉えられます。

 

Q. そうはいうけど、じゃあ慣行農業から自然農法に切り替えるときに、虫や病気がやってきてしまったらどうすればいいのよ?

 自然界の現象は全て必要があって存在しますのでどうしようもなく、人間の手によって汚染されたものを清浄化するためには、人間自身がそれらを真っ向から受け止めて、自ら尻拭いをするしかありません。肥毒が抜け切るまでは、病害虫や作物の痛みなどは仕方の無いことなのです。そして、それらを受け止めなければいけないのは生産者・流通・消費に関わる人間、全員です。
 ところがそこで我慢しきれずに農薬を散布してしまい元の木阿弥になってしまう方もいらっしゃいます。身体のアトピーのかゆみに耐え切れずに、断っていたステロイドを再塗布してしまうのと同じです。
 
 私じぃくが約半年間、全ての誘惑(酒、肉、砂糖、食欲)を完全に断ち切って玄米菜食だけを貫き通し、その結果、身体に溜まった毒素を出し切ったように、農業も健康も、最終的には自我との戦いです。(ただし農業の場合は現実的な金銭面が関わっているため、全面積を全て自然農法に切り替えてしまうことは非常にリスクが高いので絶対にやめるべきです。営農しながら継続できる範囲からで十分だと思います)
 

Q.勉強会でリチャードさんも言っていたけど、近隣の畑から虫や病気が寄ってきたりはしないの?

 昨年冬、社内全員が風邪をひいて咳き込んでいても、玄米菜食小食のじぃくは風邪にならなかったように、畑にも同じことがいえます。病害虫は、窒素などの原因や浄化作用などの必要性を伴って表出します。肥毒の抜けた畑には病害虫が必要ないので、近隣の影響を受けません。(自然農法の畑と慣行農法の畑が隣接した場所でも、慣行農法の畑だけが病害虫で全滅することはよくあるそうです)

 

Q.「畑」とか「栽培」の時点で「自然」じゃないんじゃないの?
 
 よく「自然農法の野菜は人間の手が加えられたものだから自然のものではなく、原生されている植物のほうが実は本物なんだ」という話を聞きますが、自然農法・自然栽培は「自然の力だけを最大限に活用して作物を作るぜ農法(栽培)」の略です。そもそもそれらとは「自然」という言葉の意味合いや定義付けが違うものなので、原生植物と比較対象ではありませんが、「自然」という言葉は、非常に定義の広い言葉ですので、そのような誤解を招くことも少なくないようです。

Q.なにも使わないってことは、自然農法・自然栽培って結構簡単?誰にでもできる?

 上記したように、自然農法・自然栽培は、既存科学(化学)の力を一切使わない、自然界の摂理だけで作物を栽培する農法ですから、自然の仕組みや流れを読み解き、その場そのときに応じた対応を迅速に判断できる鋭い感性を持つ(もしくはそういう能力を育てていこうという認識・情熱・志を強く持てる)人でなければ、非常に難しいと思います。
 
 故 福岡正信氏は、「自然農法や自然食は、自我を滅却した、自然に順応できる人間でなければできない」とおっしゃっています。また、リチャード・コシミズさんが勉強会でもおっしゃっていたように、自然農法は非常に頭を使う、誰でも簡単にできるわけではない厳しい世界です。

 ただし、自然を傍受する感性をもち、一度枠を飛び越えることができた人にとっては、非常に「楽」な「楽しい」農法であることも確かです。やはりここにも二重性が介在しています。

Q.肥料も農薬も使わずに作った野菜って形が不恰好なんだけど・・・

 自然農法・自然栽培で作られた作物は、同じ季節、同じタネ、同じ土、同じ水、同じ畑で作られたものでも、大きさ・色・味・香りなどが大きく違うことがあります。

 既存の慣行農法では、流通の都合に合うように、均一化、統一化した大きさの作物ができるように、F1品種(一代交配種)というタネを使います。このタネを使って栽培された作物は、基本的にどれも同じ形できれいに仕上がり「消費者ウケ」する「商品」となります。農協などに決められたサイズのダンボール箱に、同じ数・同じ量だけぴったりと入れて流通することが可能です。
 
 ただしF1品種を使って栽培された作物のタネは、次の世代の作物を作り出すという力がほとんどありません。つまり農家はF1品種を毎年タネ屋さんから購入せねばならず、「自家採種」という形でタネ(作物)を自給自足することが難しくなります。

 また、自然農法・自然栽培でもF1品種を使って作物を栽培することは可能ですが、F1品種は農薬や化学肥料を多量に使う栽培法を前提に作られたタネのため、自然界の摂理に沿って作物を栽培する自然農法・自然栽培とは相性が良くない品種もあるそうです。

Q.「自家採種」ってなに?

 自家採種というのは、自分の畑で出来た作物の中でも大きさや味など条件のいいものを「タネ取り用」として残し、熟成させ、タネを収穫するというものです。この方法で収穫されたタネは、翌年もまた畑に撒かれ、次世代の作物となります。これを毎年繰り返し、作物の命を繋いでいくのが昔ながらの「自家採種」という手法です。

 また面白いことに、タネというのは土などの環境条件をインプット(?)するらしく、とある自然農法を実践されている農家さんが、別の慣行農法の畑で出来たスイカのタネをもらってきて自分の畑に撒いたところ、初年度のスイカは全く実が大きくならずに悔しい思いをしたとのことです。ところが6年を過ぎた辺りから、少しずつ大きなスイカの実ができるようになりました。しかも翌年、その畑で出来たスイカのタネを、元の慣行農法の畑に植えたところ、大きな実が全くできなかったのだそうです。

 自家採種を行っている生産者の間では「タネが土に馴染むまで、最低でも8年はかかる」といわれており、相当の手間や時間のかかる手法です。栽培やタネ取りに失敗した最悪の場合、長年の積み重ねを一瞬にして失ってしまうというリスクもあります。ただ、食料自給率100%以上を目指すことを考えた場合、タネからの自給を考える重要性は大きなものとなるはずです。

Q.肥料も農薬も使わないんじゃ、美味しくないんじゃないの?

 肥料も農薬も使わずに栽培された作物は、いうなれば一番自然界に近い作物になります。ただし、人間の舌というのは、「その人が今までどんなものをどれだけの量食べてきたか」という条件次第で、感覚的に麻痺して変わってしまうものでもあるので、一概に「何がどう美味しい」かを判断することは困難です。ただ、自然農法・自然栽培歴の長い畑で作られた作物はどれも虫がほとんどつかずに美しく、少なくとも、自然に限りなく近い味覚を持っている人(?)にとっては、非常にクセがなく食べやすいものとなるようです。

Q. 食料自給率100%ってどういうこと?どうして100%じゃなきゃダメなの?

 日本の国土で作られる食べ物だけで、日本国民全員の生命をまかなうことだと思っています。
 
 我が国の食料自給率は現在カロリーベースで40%前後だといわれていますが、国産の作物や食品のほとんどは、その製造過程で必要なものの大部分(種、肥料、農薬、家畜飼料、食品添加物、またはその原材料など)を海外に依存しており、例え国産の食料だとしてもその多くは、海外になにかを依存しなければ作れないというのが現状です。
 
 また、日本国内でJAS認定を取得した有機農産物の割合は、重量ベースで約0.16%といわれてますが、これは、肥料も農薬も使わずに栽培された自然農法の作物は更に少ないということです。つまり、日本が真の意味で自給している食料は数パーセントに満たないのではないか?というのが私個人の見解です。

 毎度の切り口になってしまいますが、種、肥料、農薬、家畜飼料、食品添加物などの多くは、ロックフェラー財団をはじめとするユダヤ権力が介在する企業によって作られています。私たち日本人は、彼らユダヤ権力によって、生命のベースとなる食べ物から、完全に彼らに握られているのが現状です。そういう意味合いからも、もし我が国がユダヤ権力の統合的な支配系統から抜け出すのであれば、国の根源である食料を100%以上、自らの国土と労力だけで生産自給するべきであるというのが私の基本的な考え方の一つです。

 以上、非常に粗のあるてきとーなFAQではありますが、「オメーここちげーよ」とか、「オメーここ意味わかんねーよ」などございましたら、コメント欄にて宜しくお願い致します。

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お詫び

 本当に申し訳ありません。

 「名も無き空の途中で」は再移転して、こちらのココログスペースにて更新することになりました。

 お手数ではありますが、お気に入り登録の変更を宜しくお願い致します。

 ほんとスンマセン。

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僕はマクロか?

最近ふと、「僕はマクロビオテックなのかな?」と考えたことがあったんだけど、恐らく僕はマクロビオテックではないだろうという結論に到った。

 というのも、僕が今いる「ここ」に辿り着くに到った過程での約半年間は、確かに玄米菜食で、小食で、砂糖も全く取らず、必要があれば長期間の断食も行った。

 ただ、よくよく考えてみると僕は「マクロビオテック」という存在を知ったことで玄米菜食を始めたわけじゃない。以前も何度か書いてきたけれど、僕の全ての始まりは「★阿修羅♪」であって、そこで千島喜久雄という人の存在を知っったからこそ今の僕がある。

 もちろんそこに到るまでにも、類稀なる貴重な出会いや経験を重ねていたからこそ、それを自分の腹に落とすことが出来たことは間違いない。けれどもやはりあのタイミングで★阿修羅♪と出会い、千島喜久雄の存在を知れたことは、僕にとっては本当に大きな意味があったのだと思う。

 ただ、繰り返しにはなるけれど、僕が「マクロビオテック」というものの存在を知ったのは、玄米菜食を始めた後のことだし、そういう意味ではやはり僕はマクロではないと思う。

 「あ、僕の今の食生活って、マクロビオテックっていうんだ。そんでもって、マクロビオテックってのはこういう理論や理屈に基づいた思想なんだ。へぇ」

 当時の僕が思ってたことなんてこの程度。

 僕は千島医論や量子力学から頂戴したヒントを元に、自分なりに必要性があると判断した結果、導き出した結論がたまたま玄米菜食だっただけの話。そこからなぜか、農薬や化学肥料の怖さに行き着き自然栽培という農法を知り、薬品産業や医療業界、石油産業や穀物メジャの存在に興味を持った結果、ユダヤ国際金融資本の存在に辿り着き、みんなひっくるめて繋がってしまったというだけのこと。

 今では砂糖も口にするし、必要があれば肉も魚も酒も取り入れる。

 これもつい先日も書いたことだけれど、僕はなにかを勉強したり、感じたり、考えたりすることで、そこから沢山のヒントというパズルピースを収穫することはあっても、その対象に傾倒することは絶対にない。

 なぜなら、何かに傾倒するということは僕にとって、自分自ら枠組みの中に飛び込んで視野を狭めることにしかならないからだ。

 「結局のところ、決め込んだら何もできなくなるよ。何も決めないからこそ、なんだってできるんだ。枠を作っちゃダメ。」

 これは先日、とある自然農法家の方からいただいた言葉なんだけど、今まで僕が出会ってきたホンモノの人たちは、言い方や方法論は違っても、おっしゃっていること・実践されていることの結論は皆、大体同じ。

 もちろん、なんでもかんでも枠をとっぱらって自由にすればいいわけではないし、そんなことは百も承知で書いている。ただ、世の中に存在する絶対的なものは宇宙と自然界だけで、それ以外のものは、ただただ人間が作り出して、あると思い込んでいるだけのものばかり。それは、マクロビオテックだろうがなんだろうが同じこと。全て人間が考え、感じ、解釈したことを体系的なものとして確立しただけのことであって、結局それは「枠」に過ぎない。

 もちろん僕は桜沢如一氏を否定する気は一切ないし、むしろ僕はPUを世に残した氏の功績はとてつもなく大きなものだと思っている。(マクロよりもPUの方が僕にとっては大きな存在)

 今僕が言いたいことというのは、なにが間違っているとかどうだとか、そんなことじゃなくて、「物事と対峙して、それと向き合うためには、常に全体像とそれらの流動的な流れを読み解く必要があるのだから、なにか一つのことに囚われるのではなく、視野や価値観、考え方なんかを、もっともっと幅広くもって、穏やかに、二分化せず、素直に、ありのままに受け入れていくべきなんじゃないかな」ということ。

 肥料や農薬を使わないものだけの玄米菜食は確かに無茶苦茶身体に効果があるし、色々な側面から見ても本当に必要性のあることだと思う。ただしそれを「マクロ」だとか「ベジタリアン」だとか、人間の言葉で解釈するのではなくて、もっと大きな視野で大観的に、沢山の要素から沢山のことを感じ取っていくことのほうが必要なんだと思う。

 全ては自然界が作り出して決めていることなのだから、人間の言葉や概念が作り出す枠や解釈なんて、さほどの意味はない。

 それよりもむしろ、人間の言葉や価値観では到底図りきれない、人の心や精神のほうが、もっともっと難しくて、大切なこと。

 何度も書くけれど、全てはいつだって皆必ず繋がっていて、しかもたった今も、明日も、明後日も、何億年後も、常に流動的に動いている。だから、人間風情がなにかを枠組みやルールを決めたところで、それらは周りの環境や条件なんかで、あっという間に脆くも崩れ去ってしまうささやかなこと。そんなことに一々執着する必要は、僕はないと思う。

 もちろん、沢山、大切で、必要なことはある。けれどもそこは二重性。

 必要であって、必要でない。

 その二重性の本質を見極められた人だけが、穏やかな心と、本当のことを掴み取って、ここではないどこかへ行けるのだと思う。

 僕は、マクロであってマクロでない。

 結局、言葉や名称、定義や理屈なんて、人間の「解釈」でしかない。

 そして、だからこそ、楽しいんだと思う。

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