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2008年12月

今年も1年、ありがとうございました!

 長い長い2008年もようやく今日で終わり。

 僕は今まで、年末年始というものは年が1年進んで変わるだけのものと思っていたけれども、どうもそうではないらしいことが分かったこの1年。

 今年に何が起こるかの大体のことは去年の段階で分かっていたし、だからこそ僕はなぜか今ここにいる。なにかに引き寄せられるかのように動きまくった1年間。自然の摂理には、本当に頭の下がる思いだ。

 毎年この季節になると、1年前の自分と今の自分がどれだけ変化し、前進しているかを品評することにしているんだけど、今年はどうもその必要はなさそうだ。変化とか、進歩とか、そういう領域を越えてしまっているかのよう。たったの1年間で、4年分くらいの時間を過ごしてしまった僕は、大きくおっさんに近づき、また一つ「死」という喜ばしいゴールに向かって歩くことができた。

 まぁいいや。小難しいことを適当に書く力もあまり残ってないから、今年起こった事件でも振り返って、1年を締めくくろうと思う。

 それではみなさん、今年も1年「名も無き空の途中で」をご支援いただき、本当にありがとうございました。

 今年は表層化の年。来年は、始まりの年。

 辛く長い時代の幕開けにはなりますが、それでも、善悪を決め付けず、全てに意味や意義、メッセージが込められていることを忘れずに、笑って、自然の摂理に沿った生き方で乗り切ってみてはいかがでしょうか。

 そうすれば、4年後も、笑って再会できます。

 とりあえず、生きてまた、お会いしましょう。

 来年も宜しくお願い致します。

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自然栽培の作物は美味い

 (独立党公式居酒屋 豊田屋にて、みんなと囲むホッピーやヤキトンは格別だ!といっても、僕はホッピー飲んだことないけどw)

      Toyodaya

 「食料自給率100%?それはよくわからないな」

 そうコシミズさんに言われたのは、確か去年の今ごろの勉強会。独立党マニフェストの提案会議のときだったろうか。懐かしいな。

 あの頃の僕は、「身土不二」という言葉に掛かりっきりになっていて、ある種バランスを欠いた、偏った思考になっていたことと思う。若気の至りとでもいうのか、あの頃はあの頃で正解だったのだろうし、今は今で、違った結論に行き着いた自分もいる。

 コシミズさんのおっしゃっていたように、日本が厳正な規格をもうけて、それに準じた食べ物でなければ買いませんよ、という態度をとるという案には大賛成である。もちろん自国で自給した食べ物を食べ、自給率が100%以上であることが最良ではあるけれども、全てはそれだけじゃない。さまざまな要素を加味して物事を考え

 勉強会でも話をさせていただいた通り、人間の体は、食べたものの大部分がそのまま(?)血液になって、その血液が体細胞になり、その体細胞もまた血液に戻っていくという不思議なサイクルによって作られ動かされている。

 だから、土の力だけで作った作物を食べることで心身ともに健康になるのは至極当然の現象であるし、土からできた作物が土の姿に還えっていくその姿も、なにも特別なことはない。全ては流動的に連鎖しながら蠢いているもの。千島喜久雄氏の説いた生命弁証法である。人間は、宇宙や自然界の摂理が生み出す流れや波の中で生かされているに過ぎない小さな生き物なのだろう。

 僕が今回の勉強会で言い忘れたことは、「自然栽培の米や野菜はちょー美味いですよ」ということ。ただそれだけ。

 なにを書こうが、なにを話そうが、事実はシンプル。書くべきこと、言うべきことは実はほんの少し。

 大切なのは、その、ほんの少しのことを、どうやって表現し、人に伝達するか、というスタンスへの向き合い方。

 6月、9月、12月と、3ヶ月ごとに事務所を訪れた僕。

 今回、話していたとき、半年前の自分と、1年前の半透明な自分が隣に座ってた。

 とても不思議な感覚。

 人は、1年でここまで変わることができるのかと、自分自身の体験をもって思い知らされた。

 もちろんそれは僕に限ったことではなくて、誰もがきっとそう。

 今年1年、独立党にさまざまなことが起こった。全て、必要だから、起こった事象。

 去年の年末、とある席で「来年からは大変な年になるねぇ」なんて言っていた。実際大変な年だった。残ったのは、小吹さんと僕。

 前に進むというのは、ある種、捨てること。変わることは、変わらぬこと。

 僕が20数年間生きてきた中で、一番、長かった年。2008年。

 今年で、4年分くらい、既に生きた。

 だから僕は、見た目よりもオサーンに見えるのだろう。

 でも、僕はそれでいい。

 1年で半年生きるより、1年で4年生きるほうが、僕にとっての本望。

 まだまだ先がある。

 楽しい時代の幕開けだ。

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12.27 独立党勉強会「食の未来」

12.27 独立党学習会 「食の未来」

 (万人斬りさん早速のアップありがとうございます!)

 つい一昨日行われた独立党の勉強会で、僭越ながらお時間をいただき、話をさせていただきました。

 僕など、多くの自然農法家の方々の足元にも及びませんが、現状で知っていること、感じていることを、それなりに、淡々と口にできたようなきがしないでもないようなきがするようなかんじがしたりなんかしちゃったりします。

 やっぱり書くことよりも話すことのほうが、僕にとっては難しいことのようです。

 でも、久しぶりの勉強会、楽しかったなぁ。

 補足があれば後日アップします。

 年末進行ドタバタで、年内に間に合うか・・・

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テレビばっかり見てないでたまには・・・

 (ええぃ、動くでない、暮夢!)

     Img_3727

(以下、ぽちは見たから引用・転載)

 おいらがこのHPを作っていると、ご主人様はいつも怒るんだ。「はやく次の原稿書けよな」って。でもおいらは駄犬だから、パソコンを使うのも上手じゃなくて、なかなか次の章に進むことができない。「それじゃあ、いつまでたっても最終章になんかたどりつけやしないぞ」っとご主人はイヤミで笑う。しかたないから、おいら、最終章を先に書くことにするよ。

 なんでこんな章を書きたかったかというと、これこそが、ご主人様とおいらのいちばん伝えたいことだったんだ。これを読んで、みんなも、マスコミに対しての正しい認識をもって欲しいんだワン。

 まず、人間の世の中には、テレビとかラジオとか、新聞とか雑誌とか、いわゆるマスメディアっていうものがあるよね。これっていったいなんだと思う?

 「世の中の正しい姿を伝える道具かな?」ある若者はそういうんだ。
「みんなのための娯楽のひとつかしら?」別の女性は答えたんだ。

でもね、答えは全然違うんだワン。

では、「マスコミってなに?」という質問の正しい答えは、「広告・宣伝媒体」だということなんだワン。

 そう、業界ではメディアのことを「媒体(ばいたい)」って言っていて、テレビも「媒体」、ラジオも「媒体」、雑誌も「媒体」、新聞だって「媒体」ってわけ。そして、なんの「媒体」かというと、「広告・宣伝をのっけるための」媒体だということ。あっ、NHKだけは別ね。

 世の中にはたくさんの「売りたいモノ」がある。そして、それを売るためには「広告宣伝」が必要だというわけ。なら、その「広告宣伝をするための道具を作ってしまいましょう」ということで、そのためにテレビやラジオや雑誌が登場したというわけなのだワン。

 街角に看板が立っているよね。「ペットフードなら○○へ」とか、「歯が痛くなったら××歯科へ」みたいなやつ。また、たまに家にチラシが入るよね。「おいしいピザはドレミピザ!」なんてね。テレビやラジオや雑誌や新聞は、あくまでもあの一種にすぎないんだワン。街角の看板は、見る人もそんなに多くないし、チラシはまくのが大変だ。だから、もっと効率よく広告・宣伝をする方法はないか?って生まれたのが、テレビやラジオや雑誌なんだよ。(読むべし→
あるある大事典のニセ実験と洗脳カリスマDJにだまされるな

 まぁ、よく考えたらヘンな話だよねぇ。広告を見る道具を買うために、みんなは何万円も払っているんだから。そして夕食後に家族団らんしながら、広告を見ているんだから。おいらみたいな犬にとっちゃ、テレビなんかタダでも欲しくないんだけどね。

 ところが、この事実を多くの人間たちが忘れてしまっているのでござる。…というか、ご主人様さえも昔は気づいていなかったらしい。小さい頃からテレビやラジオや雑誌があって、それを見たり読んだりすることが娯楽だと思って育ってしまった現代の人間たち。すると、いつのまにかテレビや雑誌は「自分たちを楽しましてくれるステキなものだ」と思いこまされて、生活に深く浸透してしまっていたんだワン。今や人間たちにとって、テレビがない毎日なんて考えられないだろう? まぁ、一種の
洗脳だぁね。

 「洗脳なんて大げさな!」と笑う人は、一度ためしに、一日中テレビを見ないで過ごしてみるといいよ。きっと、なんか物足りなかったり、不安になってしまうはずだ。そして、なんとなく自分が世の中から取り残されたような気がしてしまうはず。そのうち寂しくなって、ついテレビのスイッチを入れてしまうはず。それこそ洗脳そのものだよ。

 そして、みんなはちょっとした娯楽の提供と引き替えに、大量の広告・宣伝を
無理矢理見せられているわけだワン。当然、そこで伝えられている内容なんて、偏っていてウソばっかりなのはあたりまえ。広告主に都合が悪い内容は出さないし、広告主が喜ぶ内容をでっちあげられている。さらに、おもしろくないモノをおもしろく見せ、ないものをあるように見せる。なんたって、作ってる人が、いいかげんなやつらばっかりなんだから。でも、そんな嘘つきのテレビ君たちに文句を言うのはおかしい。だって、みんな「タダで」情報をもらったり、楽しませてもらってるんだよ。それこそムシのいい話でござるよ。

 テレビなんて、一応それらしくニュース番組なんてやっちゃって、まるで「僕たちは真実を伝える道具です」のようなフリをしてるけど、もちろん本音は「この広告を見て下さい。モノを買って下さい」なんだから。 そうそう、よくテレビに向かって「CMが多すぎる!」とかいって文句を言う人がいるけど、あれは、間違ってるんだワン。だって、テレビは「CMを見せるための道具」なんだからさ。たくさんCMが出れば出るほど、その本来の姿なんだもの。

 そもそも、マスコミが真実を追究したり、人のためになるようなことをする必要や義務なんて、まったくないのだワン。彼らは公務員じゃないんだから、商売でやってるんだから、人のためにつくすイワレなんて、これっポチもないのである。個人の会社がお金儲けの手段として、テレビやラジオや雑誌やら新聞やらという道具を使っているだけなんだもの。そんなところに、真実を期待する方がおかしいんだワン。もし、それがいやなら、みんなでお金を出し合うなり、税金を投入するなりして、公的な機関をつくってやってもらわなきゃダメなのでござるよ(ほんとはその役割がNHKなんだろうけどね)。

 人間の世界では、よく先生や親が「新聞を読みなさい」なんて言うらしいけど、…それはもちろん大切なことでもあるけど…、同時にとっても危険なことなんだよ。だって、新聞ってのは「単なる誰かの商売道具」なんだから。そんなものを信じちゃっていいのかなぁ? おまけに新聞には「新聞にのるようなことしか書いてない」んだからね。ほんとは、新聞に載らないようなことにも、大切なことはたくさんあるんだよ。おまけに新聞がウソを書いていることだってあるんだ。でもみんなは「新聞は正しい」と思っていて、「新聞に載ってないようなことなら大したことじゃないんだろうな」なんて、安心しちゃってるワン。

 それでも昔はね、マスコミ人というのは気骨があって、新聞君なんかは「ペンは剣より強し」なんていっちゃって、圧力には屈せず真実を伝えることが使命だと思っている人も多かったんだ。ところが、世の中が平和になっちゃうと、そんなことは忘れて、お金儲けばっかり考えるやつらばっかりになっちゃった。いや、それより世の中のしくみが巧妙になったんだろうね。あからさまな情報操作なんてすぐにバレちゃうから、だます方も上手になったというべきなのかな? もちろん、マスコミの世界すべてがそうじゃない。がんばって真実を伝えている人もいるし、いい番組や雑誌や本もあるワン。でも、普通のきみたちには、どれが正しくて、どれが正しくないか、見分けがつかないでしょ?

 もし、「自分は物知りだ」と思っている人間君は、一度振り返ってみて欲しいワン。じつは、自分が得た知識って、ほとんどがテレビや本など、マスコミを通して知ったものばかりのはず(最近はインターネットも多いらしいね)。自分のもっている知識のうちの何パーセントが、自分が実際に見たり体験したりして得た知識だい? じつはそのほとんどは、実際に自分で見聞きしたモノじゃないでしょ? おいらは犬だから、実際に散歩に出て自分が見た風景や、匂いなんかが自分の知識になっているけれど、人間君はそうじゃないはず。それってとっても危険なことじゃないかなぁ? だって、嘘つきたちのいうことを信じちゃってるんだから。

 じつはね、おいら、ご主人と一緒に暮らしているせいで、ここに書いたことの100倍もの、マスコミや世の中の色々なウソや隠れた真実を知っているんだワン。やばすぎてここには書けないようなものも、たくさんあるでござるよ。でも……それらすべてを君たち人間クンに伝えることは、残念ながらできないんだワン。

 だから……、おいらの願いは、みんなももうちょっと賢くなって、世の中をじっくり観察してほしいんだワン。もっと自分の目で色々見て、自分自身で体験して、自分の力で確かめて欲しいんだワン。その上で、自分の意見をもって欲しいのでござるよ。誰かが言ってることをそのまま信じちゃうんじゃなくて、自分の目で見て欲しいのでござるよ。少なくともマスコミに登場している物事がすべてで、真実だとは思わないことだワン。彼らが言わないことやウソはたくさんあるんだ。そして、マスコミに登場する音楽も、服の流行も、世の中のブームも、すべてが「なにかを売るために巧妙に作られたモノ」だということを忘れないで欲しいんだワン。世の中のほとんどの人は、そんなマスコミに知らず知らずのうちに踊らされて人生を過ごしてるってことも……。

 それこそが、おいらが最後に言いたかったことなんだワン!
あっ、ご主人様が帰ってきたワンワン。じゃ、ちょっと散歩に行ってくるワンワンワン!!

(以上、引用・転載)

 (吠えようが、噛み付こうが、走りまわろうが、机に乗ろうが、つまみ食いしようが、僕は暮夢を叱らない。伊歩が生きてたころだったらきっと、メッタンメッタンに殴りつけてたんだろうけどね。

 いたずらしないかって?

 いや全然。

 「不自然な状況を作り出しておいてから、それに対処することができたから、この技術は効果があるんだ!と言い切る人間の滑稽さ」、と福岡正信翁がおっしゃっていたことを、犬を通じて教わる日々。

 元がきちんとしていれば、無駄なしつけをしなくても、犬は立派に育つことが分かった。暮夢の4年後が今から楽しみだ)

      Img_3721 

 僕がテレビを見なくなってからはや3年。

 「じぃく!テレビばっかり見てないで、たまには新聞くらい読みなさい!」

 昔母親によく言われたなぁ。今となっては、そんなお茶目な母親に「どっちも一緒だったじゃねーか(笑)」とツッコミを入れたくなる。

 まぁ僕という人間は他人の想像を絶するくらいにいい加減でどうしようもない人間だから、幼いころから今日の今日まで、自分のやりたいことだけをやってダラダラと生活してきた。

 新聞読めって言われたところで、読みたいと思わないのだから、新聞なんて一切読まなかった。どこか、あのインク臭や見づらい紙面構成に、子供ながら胡散臭さを感じ取っていたのかもしれない。

 テレビの胡散臭さと実態に気がつくまでには相当な時間がかかってしまったけど、今となってはそれもいい思い出。

 最近の僕は超ド級の山奥の田舎に住んでいるから、テレビどころか、大好きだった伊集院光さんの深夜のバカ力というラジオ番組を聴くこともままならない。もちろん雑誌を買うことも一切なくなったし、ここんところは忙しさも相まってか、インターネットでの情報収集すらしなくなった。

 読むのはコシミズさんのブログと自分のスレがある掲示板くらい。

 本も滅多に読まない。本は本で、他の手段では手に入らない貴重な情報が潜んでいる可能性が大きいのでたまには読むんだけど、否定の否定を繰り返すことに疲労するから、やはり読むことは少ない。近頃は「本なら・・・」ということで、そこに記載されている内容の全てに依存して影響されつくされる輩が多すぎる。弁証法のべの字も知らずに本など読むなと、思ったりなんかしちゃったりなんかすることがないこともない。

 こう書くと、「じぃくって偏ってるよな」とか言われてしまいそうだけど、一度「感じる」ことの面白さを知ってしまうと、なかなか「媒体」には心が向かないのが正直なところでもあるのだ。

 土を通じて自然に心を向けるようになると、なにか特定のメディアに触れずとも、自分に必要なもの(情報)は自ずと向こうから近寄ってくるようになるし、現時点で今自分になにが必要かは、簡単に見えるようになる。

 何かや誰かに頼らずとも、ある程度、自分の意思で答えを出して、結論を導き出せるようになる。

 そうすれば、必然的に、目には決して見えないものも、うっすらと見えるようになってくる。

 感じることできる、心強さ。

 分別することのバカバカしさや、我を内に抱え込むことの虚しさ。

 土は、それを僕に教えてくれた。

 僕はテレビをはじめとしたメディアはヘドが出るほど大嫌いだけれど、考え方によっては、クソうんこメディアがあったおかけで、今の僕があることも確か。

 やはり、全てには感謝すべきだなぁと改めて感じる。

 うんちが一切入っていない土と触れ合うことで、うんこのようなメディアのありがたさを知る。

 生きるって、楽しい。

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矛盾はあっていい

 

 

 なにがあっても変わらない柔軟な心が、全てを変えていく。

 矛盾?

 矛盾こそが、物事の二重性、つまり本質を指し示す指標のようなもの。

 全てを突き刺す矛と、なにものからも身を守る盾。

 どちらもあっていいじゃない。

 知らなきゃいけないのは、ゼロとイチの間。

 答えは、きっとそこにある。

 人間ではきっと、見ることのできない、そこに、なにかがある。

 

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遥かなるクリスマス

もうクリスマスイブか・・・・ 

(コメントは後ほど~)

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 世の中がクリスマスを理由に、「お金」という実態のない幻を必死にかき集めて微笑みを浮かべる中、メディアに踊らされた男女がカップラーメンのような一時の雰囲気に包まれる中、僕はこの季節になると必ずこの曲を思い出す。

 反戦ソング?

 そんなちんけな言葉で括りたくないなぁ。

 第一反戦ってなんだろう。

 戦争は良くないこと?

 戦争は悪いこと?

 そりゃぁ人が人を殺すのは、僕の趣味じゃない。

 でも、そこに善悪を求めるのは、もっと僕の趣味じゃない。

 金という人為的なもののために、命という自然の要素が強制的に圧力を加えられる戦争。

 でも、いいじゃない。

 本来、生も死もないんだ。

 喜びも恐怖もない。

 そう思えばきっと、全てが違っったものに見えてくるはず。

 でも、誰もが心から笑って生きられる時代が来るのなら、それは本当に素晴らしい。

 誰もが永遠に幸せに過ごせる時代。

 たまには、そんな妄想、幻想に思いを馳せてもいいと、自分を許す日。

 めりーくりすます。

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ノズルを壊した熱

Mains

 犬と生活している人の必需品といっても過言ではないオレンジエックス。

 僕もここ5年ほど愛用しているんだけど、今日、とうとう写真のスプレーボトルの先端のノズル(?)が壊れた。

 「あ~あ、これボトルだけのくせにすげぇ高価いんだよなぁ・・」、とぼやきながらつまんだノズルは噛み砕かれてグチャグチャ。

 壊れるはずだ。

 暮夢?違う。暮夢はこんないたずらしない。

 そうだ。伊歩だ。

 あのとき、すげぇしかりつけたなぁ。それがようやく壊れたんだ。

 でも、不思議だ。

 あのとき伊歩が力を加えて変形したノズルはこのままなのに、伊歩はもういない。

 たまに懐かしくて、生きて動いているころの伊歩の映像を見ることがあるけど、あいつ、一体どこにいったんだろう。

 あの、吠えて、尻尾をふって、笑って、走って、食べて、泣いていた、あの伊歩のエネルギはどこにいったんだろう。

 力が加わり、形が変わったものは僕の手元にあるのに、もう、これを噛み砕いた伊歩は、居ない。

 当たり前のことなんだけど、どこか不思議。

 

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アダムとイブ

    0166

(以下、嘘が多い Wikiより引用)

 旧約聖書『創世紀』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には命の木善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木はすべて食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこのときは食べてはいけないと命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。が女に近づき、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧め、二人は目が開けて自分達が裸であることに気づき、イチジクの葉で腰を覆ったという[2]

 この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠の苦痛が増し、また、地(アダマ)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す[3]。アダムが女をエバと名づけたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることをおそれ、彼らに衣を与えると、二人を園から追放する。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめく剣の炎をおいた[4]

(以上引用)

 前回エントリの補足っつーわけじゃないんだけど、おもしろいエピソードだったので引っ張ってみた。

 聖書とか、世の中の見聞に一切知識のない非常識な僕は、アダムとイブがこんなエピソードだったなんて知らなかった。

 「善悪の知識の実」だって。

 ありのままの姿で、自然や動物とわけ隔てなく生活していた二人の男女が、善悪を分別して、知識を得て、判断することを覚え、自己と自然を切り離し衣を身にまとった。

 そして、女性は妊娠の苦痛が増し(?)、土(アダム)が汚染され、額に汗しなければ食料を手にすることができなくなる。農業のこともそうだけど、現代貨幣奴隷制度のことだね、これ。

 宇野正美さんなんかは、聖書とアシュケナージユダヤハザールのことを強く結びつけて説明されることが多いけれど、僕はこの聖書というのはなんだか小難しくてじっくり読んだことはない。ただ、要所ようしょのエピソードを知っていくと、現代社会と符号する点も多くて、興味深いことは確か。

 つまり、分別したり、無駄な知識や知恵を身に付けて、科学の名のもとにあーだこーだと人間の範疇の中で判断するってことは、ロクなことにならないよってことなのかな。分からないけど。

 自然が一番?

 いやいやそうじゃない。

 在るのが、ただ、宇宙と自然界のうねりなだけ。

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分別しない。解釈しない。自分は無。

(以下 玉蔵さんのブログから引用)

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに


よく見聞きし分かり

そして忘れず


野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい

宮沢賢治さんの有名な詩 「雨にも負けず」です。
でくのぼーといわれ、いつも静かに笑っている人が出てきます。
奴らはこういう人が一番おっかない。
こういう人に会うと奴らはヒザがガクガクして失禁してしまい、
金玉も恐怖で張り付いてほうほうの体で火星に逃げていかざるえないのです。

皆さんもこの精神で、今のキチガイ社会の常識から脱して下さい。
ワタスの目標です。
毎日できるだけ雨にも負けずの人に近付くように努力しています。
最近は、田舎にひきこもり形だけ近づく努力をして
いつかこのような人になりたいと思っています。

今の社会の他人を蹴落としてまで金を稼ぐという常識こそ
奴らが作りだした常識です。
人を憎んだり、恨んだり、そねみ、ねたみ。そういった類の人間の
悪感情というのは、妄想から生まれると何度も言っています。
勝ち組、負け組などと誰が基準を決めたのですか。

きれいな服をきて、きれいなマンションに住んで、高給取りで。
そういう生活が良いと誰が決めたのですか。
単なる妄想です。だから、妄想に凝り固まった人は、破壊的な感情に支配されます。
奴らの良いカモになるのです。
妄想を解き放てば馬鹿にされても、何とも思わなくなるのです。
馬鹿にされても、ただ静かに笑うだけです。

何を基準に人を馬鹿にしているのか、笑い物にできるのか。
妄想に支配されているだけではないですか。
哀れに思いこそすれ、馬鹿にされても怒る気持にもならないのです。

お前は派遣社員で、俺のように正社員になれなかったかわいそうな奴などと
誰かが言ったとします。
ワタスから言わせればちょっと待遇が違うだけで、
どちらも奴隷に変わりないではないですか。
奴隷なら奴隷どうし仲良くすれば良いのにと思うだけです。

例えば会社という組織は、社員にせこせこと働いてもらわねば困るのです。
ですから、部長、課長、係長、平社員、契約社員、派遣社員などという序列を作って
目の前に、昇進だの昇給だのというニンジンをぶら下げるのです。
ここまで頑張れば正社員にしてやるよ。ここで踏ん張れば部長にしてやるよとか何とか。
それで、社員はせこせこ雀の涙のような給料でこき使われるのです。

その昔、おもしろい体験があります。
ワタスは若いころ、柔道をやっていますた。
ワタスの通う町道場は、最初は人も少なかったのですが、
だんだん生徒も増えてきて盛況になってきたとたん、
何と帯の種類が増えたのですた。

要するに黒帯というステータスに簡単にたどりついてもらっては困るのですた。
白帯、茶帯、黒帯と三段階しかなかったのに、
青帯とか、黄色帯とか訳の分からない色が間に入って
ピラミッドの階段が増えたのですた。
そうやって黒帯のステータスを上げるのです。

俺は部長だからといって平社員をさげすみ、馬鹿にするような社員は
奴らの術中にはまった人なのです。
奴隷どうし憎しみ合わせて、本質を見えなくさせる。
良いカモではないですか。

奴らは、そうやって訳のわからない妄想の価値判断基準を作りだすのです。
そうやってお互いに競わせて、いがみ合わせるのです。

こういう人はすばらしいのだよ。
女性なら、目がぱちくりして、肌が白くて、贅肉がついてなくて、スタイルが良くて。
などとしきりにメディアを使って理想像を作りあげるのです。
浜崎あゆみさんという人が良いのだよと言われれば、みな若い人は
浜崎さんの真似をします。
ワタスから言わせれば南極一号の方がよっぽど可愛らしいと思うだけです。
南極一号についての詳細は
⇒こちら※注(18禁)

やつらの術中に見事にはまった人は、人を羨み、ねたみ、そねみ。
そして、しまいには、憎んだり、恨んだりするのです。
いったい全体誰が価値判断の基準を決めているのですか。

世に知識人と言われる人がいます。
最近の知識人はアメリカかぶれなのか何なのか。
小難しそうな言葉を並べて、英語交じりの日本語だか英語だか分からない
ちゃんぽん言語を自慢しています。
そもそも、街中でたわいもない話に夢中になって笑い転げている女子高生と
しかめっ面していかにも難しそうなことを考えてますよと言う中年オヤジと
何の違いがあるでしょう。

ワタスからしてみればよっぽど無邪気に笑う女子高生の方が崇高に見えるのです。
ワタスが人恋しくて里に下りた時、時々食べに行く蕎麦屋のアルバイトの店員さんがいます。
いらっしゃいませーとハツラツと働く姿は何と崇高なことか。
そこらへんの知識人に爪の垢を煎じて流し込みたいぐらいです。

世の中には障害者がかわいそうなどと言う人がいます。
よっぽど、あの人の方が勝ち組、私は負け組などと日々、
妄想に心をちりぢりにすり減らしている一般人の方が可哀そうではないですか。

前にも書きましたが、人間、やってることは物を食べてウンコを作り出しているだけです。
どうせウンコを作るだけなら回りくどく作らずに普通に作れ!と突っ込みたくなるだけです。

子供を学習院などに入れて、少しでも華族だか貴族だかの上流の仲間入りを
しようなどというあさましい母親もいます。
この世の地位とステータスと思っていたものは、自分の心のあさましさ
を表す指標だとなぜわからないのでしょうか。

湯田屋のプロトコールを読んで下さい。
プロトコールというのは、要するにマニュアルです。
マクドナルドの店員が読むのは接客マニュアル。

これは、太古の昔からやつらが読んでいる人間の支配マニュアルです。
まぁ、長いので暇があれば読んで見て下さい。


http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/puro.html

すべての人に親切で、無私であり、でくのぼーと呼ばれても、いつも静かに笑っている、
そういう人こそ、いまからの時代生き残るのです。真人間こそ生き残るのです。
時間が残されていません。
妄想を取り除いて雨ニモ負ケズの精神で生きて下さい。

(以上引用)

 僕はここ数ヶ月間、分別するな、自分の勝手な言葉や感覚でなにかを解釈して判断するな、と自分に言い聞かせてきた。

 ユダヤハザール最大の発明は、人間に「判断」というものを与えて、「恐怖」を生み出したこと。彼らは、たった一つであるものを二つに分けたのだ。そこから彼らは、人の心を上手に左右できるようになった。

 例えば、「あいつは○○だ」とか「あの人は□□だ」と表現したとしよう。するとその時点ですでに、「自分とあいつ」「私とあの人」というように分別して、「○○だ」「□□だ」と、自分の内面にある狭義な価値観の範囲でなにかを勝手に解釈することに直結している。

 それは、自然の流れじゃない。原理原則に反した人間の行為。

 つまり、分別や解釈というのは、至極小さな自分基準で物事を捉えるということになるんだ。

 自分に目を向けてみればいい。客観視を通り越して、観念的な二重化を自分に投影して実践してみればいい。そうすれば、自分がどれだけろくでもない人間かが分かるし、自分も他人も全く同じ認識(存在)であることが簡単に分かるだろう。

 自分も他人もへったくれもない。

 もちろん全てにおいてなにかを分別することや解釈することを否定するわけじゃない。ただ、主としなければいけないことは、「全ては皆一つで、分け隔てない」という原則を忘れない意識。

 そこを忘れてしまうと、全てが「自分以外のなにか」に成り下がり、我が主となり、エゴとなり、摩擦を生む。その摩擦の共鳴が、現代社会の成れの果て。

>>今の社会の他人を蹴落としてまで金を稼ぐという常識こそ
奴らが作りだした常識です。
人を憎んだり、恨んだり、そねみ、ねたみ。そういった類の人間の
悪感情というのは、妄想から生まれると何度も言っています。
勝ち組、負け組などと誰が基準を決めたのですか。

 多くの人は、ユダヤハザールが長年かけて作り出した体系的な常識という名の枠・檻の中で生きてる。その外に、「全てが皆一つである」自然界が存在するとも知らずに、自分の今いるその場所だけが全てだと思い込まされ、生きている。つまり、妄想。お釈迦様もとい、ユダヤハザールさまの掌の中。

 金にせよ、政治にせよ、経済にせよ、教育にせよ、科学にせよ、整形サイボーグアイドルにせよ、みんな彼らに作り出されたもの。

 作り出されたものに囚われ、自然から外れた者は、やがては自然に淘汰される。必要が無くなれば、消えてなくなる。そこには、生も死もない。ただ、循環があるだけ。

 気がつく人には気がつくという役目があって、気がつかない人にも気がつかないという役目がある。ただそれだけの話。だから、彼らユダヤハザールにも与えられた役目があって、それは必要だから存在しているだけのこと。そしてそれが一度わかってしまえば、なにも恐怖はない。分別も必要ない。全てにはそれぞれ意味があって存在している。

 わたしもあなたもない。

 全て、一つの源の下に置かれている現象。同じ。

 バカにされても、罵られても、なにを言われても、どう解釈されても、僕は構わない。なにも感じない。

 意味、役目、流れ。

 全て必要がって何かのために起こっている。

 だから、そこに感謝の念が生まれる。

 そうすれば、もう5年先まであっという間だ。

 これから大勢死んでいくであろう人たちも、僅かに生き残る人たちも、全て役目がある。

 死に恐怖を感じる必要もない。選んだのは自分。決まっていた役目。

 生を恐れる必要もない。与えられた役目。選んだのは自分。

 どちらも、もうほとんど、決まっている。

 

 

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居ても、居なくても

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 割り切ることはとても難しい。線引きすることも、とても難しい。

 なにが正しくて、なにが悪いのか。

 そんな、ありもしないものの狭間で揺れているのが、僕という認識。

 「自分」という認識は、在るようで実は無くて、無いようで実は在る。存在などしない。ただそこに、「認識」という狭い空間が停滞しているだけ。

 全てのものには必ず二面性や多面性があって、丁度その狭間でゆらゆらと揺れ動くのが、人間として生きること。僕はそう思っている。

 僕(自分)などという微細な認識は、あってもなくても実はほとんど同じようなもので、言ってしまえば、もしかしたら無いほうがいいくらいのものかもしれない。

 そもそも、僕が僕であるという根拠など、どこにもありはしないし、僕という認識があるということだって、定かではない。

 だから、僕にとって大切なのは、内面に向けた自己の認識よりも、外部から入り込んでくる、どこか違う認識から生まれたまったく別のもの。自分以外の何か。

 僕にとって、僕などというものは、案外どうだっていい。

 それよりも大切なのは、自分という認識の輪郭を決定付ける、外部認識。即自から対自へ。

 全ては自分の認識次第で様変わりする、うつろいやすいもの。けれどもその自己の認識は、外部から形成される。二重性。矛盾。交換。往復。作用。反復。

 内も外もない。善も悪もない。生も死もない。

 ただ、認識を保持するには、ときに狭義な便宜上の解釈も必要とされる。拡大。収縮。拡大。人間の瞳孔のようなもの。

 瞳孔が開くとき、終わる、命。

 恐らく、ただの命では体験できない、広がりを持った視野の先に、求めるものが、ある。

 

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池袋で僕と握手!

 僕のこのスペースですっかりお馴染みとなった自然農法家のRさん。

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 そんなRさんが1年間気合と愛情と熱意を込めて作った自然栽培の落花生が食べたい独立党員は、近々事務所に集合だ!w

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にんじんジュース

 生のにんじんを摩り下ろしただけのにんじんジュースを飲ませてもらった。

 僕の大好きな人がつくった、にんじんのジュース。

 オレンジ色のその液体は、野菜に含まれていた水分とは思えないほどにクリーミーで、甘くて、優しい香りがした。

 ここ最近、美味しくて感動することが多いけれど、あんなに美味しいジュースは久しぶり。

 いつからだろう。

 日常の些細なワンシーンで、心から感動できるようになったのは。

 それとも、数十年以上農薬も肥料も使わない畑で取れたにんじんには、それだけ人の心を動かす力があるのだろうか。

 分からない。

 でも、美味しかった。

 その事実だけで、今は十分だと思う。

 幸せは、案外自分の近くに、ある。

 心次第。

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健康診断

 部屋の掃除をしてたら、随分前に受けた健康診断の結果おしらせ表が出てきた。

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 前回というのが平成18年の4月だから、大阪で、地獄のような環境で三ヶ月住み込みの仕事をすることになる直前の診断結果だ。つまり、★阿修羅♪を知る前のことで、当然千島医論も知らなければ、玄米菜食や自然栽培、ユダヤ権力やリチャード・コシミズさんのことも、全く知らないころ。

 で、今回というのはその翌年。断食や、一日一食の半断食を繰り返しながらハーモニック・トラストの自然栽培玄米菜食に切り替えて、8ヶ月くらいが経った頃。

 今思うと、よくもまぁあんなことしてたなぁと思う今日この頃。やり始めたことは徹底的に最後までやり抜かなければ気がすまない性格の僕としては当然の結果なのだろうけど、今もう一度あの生活をやれといわれたら、もしかしたらちょっと無理かもしれない。それくらい当時の僕の食生活はストイックな方向に締め上げていた。もちろんあの時期、あの食生活があったからこそ今があるわけで、僕が激やせした約1年間は、とにかく自分との戦いだった。恐らく僕は、あの1年間で、それまで培ってきた自分をぶっ殺すことに成功したんだと思う。

 そんな僕の今の体重は、丁度60キロ。体脂肪率は約12%~15%ほどを行ったり来たりしている状態。

 冬はどうしても体温の関係で食べる量が増えるから、当然体重も増えるんだけど、59.9キロを越えたのは本当に久しぶり。痩せ切ってからは初じゃなかろうか。

 今の僕の食生活は、1日2食。内容も当時と特別変わらず、自然栽培の米と野菜。食べる量は少し増えたかな。

 最近強く思うのは、結局食べ物が安全なのは当たり前で、人間の体の健全さというのは、それをベースにこそすれど、直接的な因果関係はあまり強くないんじゃないかということ。

 もちろん食品添加物とか化学物質、慣行栽培や有機栽培のものがいいと言っているわけじゃない。ただ、以前にも何度か書いたように、全てはある側面では多様性であるし、また、無肥料無農薬の作物は、広い視野で見ればなにも特別なことじゃなくて、あって当たり前のもの。それを生活に取り入れてもなにも変化や改善のない人は、結局心が汚れているわけで、つまり自我の塊がどこかにつっかえているのだと僕は考える。

 人間はなにも体だけでできているわけじゃない。大きく分けると、精神、魂、肉体の三つが合わさって出来ているから、どれだけ当たり前のものを食べて、それを血液に変えようと、その血液の循環やらなんやらがうまくいかなければ意味がない。その循環を司るのは「気」。精神と魂の部分だ。

 だから最終的に求められるのは、全てを自然に向けること。食べ物だけが自然の力で生み出されたものでも、人間性に「自我」という不自然なものを抱え込んでいれば必ず病気になるし、治るものも治らない。

 そしてそういう人に限って、自分の内にある問題の原因を、なにか外に求め、「あれが悪い、これが悪い」と言っているうちに、なにも変わらずにお迎えがきてさようなら~という感じ。

 世の中に不要なものは何一つとして無いけれど、反面、強すぎる自我だけは、やはりいらないのではないだろうかと思ったりもするのである。

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金より食べ物

(以下、リチャード・コシミズブログから引用)

埼玉県和光市の野菜の独り言

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人参ちゃん:

「あたし、色っぽ過ぎるって言うんで、お嫁に出してもらえなかったの。スンゴク美味しいのに、誰にも食べてもらえない.....かなしぃ。」

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大根君:

「俺、畑じゃあ、モテモテだったんだぜ。男らしい!って。でも、あんまり逞しいんで、やっかまれて、畑の脇に放り出されちまったよ。」

「カタチ」で選別され市場に出ない野菜の多いこと甚だしい。こうやって、外見が理由で食されない食物を流通ルートに乗せれば、かなりの食糧自給向上につながるはずだ。

世界の野菜の生産量の47%を中国が産出しているという。農薬を彼らがきちっと管理して使っているか?疑問である。加工食品となってしまった中国製野菜に至っては、農薬使用の有無を吟味する方法も無い。

まず、わが国自体の信頼できる農業を取り戻そう。自給率を上げよう。消費者の「イメージだけで物事を判断する」性向を少しづつでも変えていこう。経済危機が、そういった環境を自然に整備してくれる。

農業の復権が近い。もうすぐだ。

(以上引用)

 いつからだろう。人は目に見えるものしか分からなくなった。信じられなくなった。理解できなくなった。

 恐らくそれは、なにかを分別することから始まったことなんだと思う。

 目に見えるもの。

 目には見えないもの。

 そうやって人は、なにかを必ず分別しようとする。自分の世界観にある言葉に置き換え翻訳して、自由に解釈しなければ気がすまない生き物。

 でも、普段僕ら生きている人間が、目で見て、触れて、耳で聞いているようことは、果たして全体のうちのどれくらいなのだろう。

 三分の一?いや、もしかしたらもっと少ないかもしれない。

 いずれにしても僕ら日本人は、明治維新以降に考えることを忘れた。感じることを忘れた。というよりも、考えることや感じることを忘れさせられた。そういうような環境や教育が海外から流入して、いつの間にか、それが当たり前になった。相互浸透。量質転化のたまものなんだろう。

 日本に持ち込まれたのは、西洋文化。持ち込んだのは、西洋人。

 そう、まいどうおなじみのユダヤ人だ。

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ドッグランデート

 久しぶりに一日なーんもやらなくていい日が取れたので(暇という意味ではないw)、今日は久しぶりに暮夢とデート。

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 自宅から15分くらいのところにドッグランがあるのを発見したので、早速行ってみたんだけど、田舎はこういうところがいいよね。都会とは違った意外な環境が、身近なところに転がっている。

 ドッグランに着いたのは11時半。受付の掘っ立て小屋のおばちゃんに千円払って入場したら、だーれもいない。ミニチュアダックスフンド一匹には広すぎるスペースを貸切状態で1時間ほど走り回った。

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 愛犬の暮夢もお陰様で生後8ヶ月半。今日はカメラは持っていかなかったので、こんな写真ばかりだけれども、毎日すくすくと可愛くなっていく暮夢。毛もようやくロングっぽくなってきて、顔つきもイギリス系ダックスの特徴がでてきました。足の毛がボーボーなのはご愛嬌。

 最近なかなか散歩に連れて行く時間が取れなくて可愛そう(?)な思いをさせているんだけど、たまにはこういう広々とした場所で悠々と遊んでもらわないと、ストレスたまって家中グジャグジャにされてしまうのです。というか、もうすでに家のなかグジャグジャなのです。

 生後半年を過ぎた、自我の芽生えた犬は怖ろしい。

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 それにしてもこのイギリス系のダックスフンドというのは、飼い主の僕が拍子抜けするほどに人懐こくて、たまに誰が飼い主だか分からなくなってしまうほど人間が大好き。まるでダックスフンドの皮を被ったキャバリアのよう。いつ誰に盗まれても普通に暮らしてしまいそうな暮夢は、ドイツ犬大好きな僕としては少し寂しい気もするが、先代の伊歩は伊歩で大変だった面もあるから、まぁこんな子との生活もいいかなぁと。

 お昼を過ぎたあたりで、常連らしき人たちが続々と現れて、園内は大型犬がギャンギャン走り回る危険地帯になってしまったんだけど、犬にも人にもとにかく愛想のいい暮夢。さすがに大型犬3匹に囲まれたときは泣いてたけど、これもいい体験。たまには刺激が必要だ。

 帰ったのはお昼過ぎ。

 その後ずっとくたびれて眠りこけていた暮夢。

 僕は君がいてくれるだけで、十分過ぎるほどに幸せだ。

 

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夜明けと朝焼け

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(自然のグラデーション。太陽がもたらす大きな力の元に、人間という生き物の微弱さを感じる朝。街はまだ眠っていた)

 ぼくの今いる場所には

 上も下もなくて

 右も左もなくて

 あるようでなにもない

 ぼくがいるのかいないのかもわからない世界

 遠くもなく近くもなく

 暖かくもなく冷たくもなく

 それが空

 宇宙

 どれもこれもみなつながっていて

 別だと思っているものはみな一緒

 太陽も

 月も

 星も

 水も

 土も

 動物も

 植物も

 人も

 ほんとうはただひとつのもの

 たったひとつしかないもの

 みんなおなじ

 みんないっしょ

 気がつけばぼくは今

 この土に生まれ

 この土に立ち

 話し

 考え

 笑い

 泣き

 感じ

 歩いている

 あなたもそれとおなじ

 ぼくもあなたもない

 ぼくはあなた

 あなたはぼく

 分けない

 分別しない

 みんなおなじ

 みんないっしょ

 こうしているぼくも

 やがてはもとの姿にもどっていく

 生まれては消え

 消えては生まれていく

 点滅

 いのち

 連続

 点と点のつながりが

 まるでひとつのもののよう

 ぼくはここにいて、ぼくはここにいない

 ありがとう

 さようなら

 こんにちは

 ありがとう

 どこにいてもみないっしょ

 つながっている

 いっしょ

 おなじ

 全ては、一つ

 今までも

 これからも

 ずっと

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天狗と落花生

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(伊勢 海沿いのススキと空)

 「やっぱりよぉ、リチャードにも俺の作った落花生食べてもらってよぉ、『美味い!』って言わせたいのよ。感謝してるんだよ、俺の全然知らないことをあんだけ教えてもらってよ。プログも講演の映像も毎日見てんだよ。リチャードはよぉ、ただもんじゃねぇっつぅかよぉ、あれだけ覚悟決めてやってるのはすげぇと思うよ。今度一緒に東京連れてってくれよ。まぁ、なんだ、独立党を知ったからにはよぉ、ヤキトン食わずに死ねないっつぅかよぉ」

 ということで、僕のせい(?)ですっかりリチャード・コシミズファンになってしまったRさん見てますか~ (~^д^)~

 Rさんは僕が今一番可愛がってもらっている、肥料も農薬も使わない自然栽培で落花生やさつまいも、大根なんかを栽培されている生産者の方。

 秋も深まり冬も近づく中、収穫の終わった落花生を持ってきてくださるんだけど、これが美味いの何の。自然栽培じゃない落花生でも、Rさんの作る落花生は美味い。落花生ってこんな美味かったのかというくらい。近々自然栽培の落花生も出来上がるそうだから、そうしたらコシミズさんや独立党のみんなにも食べていただこうと思っているのでお楽しみに。(僕もまだRさんの自然栽培落花生は食べたことがないので非常に楽しみなのだ)

 そんなお茶目なRさんから、先日こんなことを言われた。

 「こいつ(じぃく)のいいところはよ、どんだけ知っても天狗にならねぇところっていうかよぉ、大体は知っちまうとよぉ、天狗になるものなんだけどよぉ、違うんだよなぁ。それとよぉ、人に合わせるのが上手いっつうかょぉ、それでいて自分の芯はしっかり持ってブレないっつうかよぉ。それ、意識してやってるのか?w」

 見ていないようでしっかりと見ている、鋭い洞察力をもったRさん。やっぱり自然農法やってる人は、みんなただものじゃない。

 僕は基本的に人に褒められたりよく評価されるのが苦手な人間。数年前に「人の心を読む」能力(?)を身につけてからは、身近に居た人たちのほとんどが、即自のまま大人になってしまった人たちだということが見えるようになってしまった。それから僕は、自分への評価は「ちょっとデキの悪いバカなヤツだ」と思うくらいが丁度いいんじゃないかと思うようになったのだ。

 弁証法を身につけたら、怖くて天狗になんかなれやしない。

 自分を過信して、自分を過大評価し、周りが見えておらず、まるで赤子のような精神しか持ち得ない大人の殻を被った人たちの姿は、当時の僕には本当にひどい「豚」のようしか映らなかった。絶対にああいう風にはなりたくないと思った。

 それに、自分をよく評価したら、先が無くなってしまう。

 僕のコンセプトでもある「ココデハナイドコカヘ」ではなくなってしまう。

 天狗になるということは、限界を設定して、その場を安住の地として住み着いてしまうこと。僕にとってこれほどまでに怖いことはない。

 自然栽培リンゴの木村秋則さんじゃないけど、「足りない足りない工夫が足りない」と自分に言い聞かせることは、大切だと僕は思っている。

 後ろを振り返って足るを知るのは大切だけれど、前を向いた上で自分に今なにが足りないのかを考えるのはもっと大切だ。

 そして、前に進むために足りないものがあるとすれば、それをどうすれば克服・解消できるのかを、考える。感じる。掴み取る。

 天狗になるとさ、鼻が長すぎて、掴むべきものに手を伸ばせなくなるじゃない。鼻先が邪魔でさ、どんどん必要なものをグイグイ遠ざけてしまう。

 それが分かったから、意識しなくても、自我を制することが勝手に身についた。

 そうしたら自然と、色々なものが身の周りに集まってくるようになった。

 土に還ることで掴み得た、僕なりの自然観が、これ。

 

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病気になる人の心

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(自然の菌がびっしりとついた麹米)

 「こんなことを言うとキザったらしいかもしれないけど、私は宇宙というのは愛だと思っているんです。経済学にしても、経営学にしても、医学にしても、科学にしても、そういった法則から外れてしまったものは、いつか、みんな底からまるごとひっくり返されてしまうときがくるような気がしてならないんです。

 寛容力があって初めて、免疫力というものが生まれてくる。多様性の中から生まれたものの生命力はとんでもなく強いんです。色々なものを受け入れ、認めていくことで、本当の意味での心や愛というものが育つのではないでしょうか」

 古い歴史を持つ、とある酒蔵の当主の方の言葉。

 僕にとっての愛というのは、なにかを気がつかせてくれるメッセージや信号で、それらは全て自然に生まれる力のこと。つまり、やはりここでも宇宙や量子に繋がってくる。

 身の回りに起こる全てのことは、自分になにかを気がつかせるためのメッセージで、必ず意味がある。でも、その意味を正確に感じ取ることができない人は、気がつかないままに死んでいく。

 自然を捉える感性が有るか無いか。たったそれだけのことが、道を大きく分けてしまう。

 今の世の中、排除の論理が原理原則。

 人はいつしか、全てを要るものと要らないものに分別するようになり、要らないものは排除することが当たり前、正義とすらなってしまった。

 僕らの生かされている世界において、要るものと要らないものを人間が判断することなど出来ないはずなのに、人間はそれがさも正しいかのように分別をやめることなく、排除し続けてきた。

 その結果、現代社会を取り巻く複雑な問題が噴出してきている。

 日本酒造りにも同じことがいえるのだという。

 米と水、空気中を漂う菌があればできるのが日本酒なのに、今の酒造りは、菌を有用菌と雑菌に分けて、良いとされるものだけを人工的に培養して、必要ないと判断したものは全て悪として排除されてきた。その結果、安価で大量にお酒を生産することができるようになった反面、古来から日本という国の伝統として伝え繋がれてきた文化は消えていく。

 全て、明治政府以降。

 ありとあらゆるもの、八百万の神と共存して生きてきた日本民族の伝統は、全てあの時代を境に消えていった。人と自然界の接点が消えていった。

 もちろん全て必要があって起こったこと。だから、今、そういったものが少しずつではあっても元に戻ろうとする現象が現れている。

 ただ、それを取り戻すために必要なのは、全てをありのままに受け入れる人の心。なぜなら、元に戻すというのは、自然との接点を復帰させることなのだから、今まで排除の論理で除外していたものの全てが、実は意味や役割をもって存在していたものだというのを人それぞれが正確に理解していかなければいけない。

 NWOにしても、世界政府にしても、国際主義にしても、多様性を奪い去って、全て単一化・画一化するという排除の論理が一貫して流れているじゃない。だから世の中、こういう顛末になっているのだと思う。

 排除はなにも生まない。

 排除するには、分別するという判断が伴う。

 人間の判断である分別は、自然には本来あってはいけないもの。

 米と水を放っておけば自然と調和して出来る酒も、なにか(菌)を排除すれば人工的なものに頼らざるを得ない。

 そして、分別、排除しようとするのは、いつでも、人の心。自我。

 わがまま=我侭っていう言葉があるよね。

 自分の我の言うが侭。

 自分を全面に押し出すということは、例えば自分以外の他人を排除することに繋がる。そうすると、当然人工的なものに頼らざるを得ない状況がやってくる。結果的に病気になる。

 「お前みたいなオレオレ系なヤツは、自然界にはいれてやんないよ」

 かみさまはきっとそう言うのだろう。

 他人を殺してばっかりで、自分を殺せない人は、やがて自分に殺される。

 きっと人間の体を取り巻く問題には、病気とか、薬とか、食とか、そんなものを超越した精神や心の要素が起因することがあるのだと思う。

 全ての原因は自我。

 それを捨てられるのは、自分で何かに気がつくことのできる人だけ。

 誰かになにかを言われたり、教わったりして、自我を修正できるようになる人は、絶対にいない。

 全て自分次第。

 自分で気がつかなければ、なにも変わらない。  

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