伊歩と暮夢
wwwwwwwwwwwwwwwwwww
バロスwww
朝。僕の布団の中でぽかぽかと柔らかな熱を放っているのは愛犬の暮夢。
「さぁ、もう起きるぞ!」といって布団をはぐと、大抵はこんな感じで縮こまって寝ている。
ちょっと前までは布団の中に入るのを怖がるような幼い子犬だった暮夢も、気がつけばそろそろ生後10ヶ月。
ダックスなんだか、なんなんだか・・・
ドイツ犬だかイギリス犬なんだか・・・・(実際イギリス犬)
よく分からない暮夢が、最近とにかく可愛くて仕方が無い。
顔もようやく大人っぽい顔つきになり、「こいつダックスのクセに足長くすぎじゃね?」と思っていた足も、全身がぐいーと伸びることでバランスよくなってきた。
出すつもりはないし、そんなものなんの興味もないけれど、とあるところでは「この子、耳と足のつき方がショードッグ向けの犬ですね」といわれてしまうほどの仕上がり。カニヘンサイズの超小型ダックスだけど、先代の伊歩のようにネタになるようなイタズラもしないし、吠えないし、フサフサだし、モフモフだし、今のところ順調にすくすくと成長中。
一つ問題なのは、一眼レフのカメラを向けると狂ったように暴れだすので、携帯電話のカメラで撮影することがほとんどだということ。なかなかいい写真を撮らせてくれない。
こうしてとんこつをあげないとシャッターチャンスをくれないのが玉に傷。
でもなんか、こんだけ穏やかだと、あと1匹くらい暮夢みたいな子がいても楽しいかなぁ、なんて。
どうして人は、こうまで本質に眼が向けられないものか。
自然の摂理の生み出す事象を、感じれば感じるほど、真実とか、本質とかいうものは、本当に拍子抜けしてしまうほどに簡素で、単純なものだということが見えてくる。
なにも加える必要がない。
なにも考える必要がない。
ただ、目の前にある与えられた現象を紐解けばいい。
しかし、人は、どうしてかそれができない。
難しくしたがる。
考えたがる。
利己的に捉える。
自分、じぶん、ジブン、JIBUN。
全ての中心が自己、自我にあるとでもいわんばかりに、本質や自然から目をそむけ、それが本質であると勘違いしてしまう。
本当は簡単なのに、見えなくしているのが、最終的には自我。
全体を見る。
繋がりを考える。
細部を見る。
また、全体を見る。
あそことそちらの中心点が「ここ」だと分かっていても、あそこやそちらが複数あるということには気がつかない。
一部が全体だ。
いいや、それは一部であって、全く全てではない。
本質は、もっと身近なところにあるのに。
本質は、もっと近くにあったはずなのに。
いつのまにか人は、自らそこを遠ざかる選択を重ね、今日に到る。
本当は、本質は足もとの土にあったはずなのに、いつしか人は、意識だけが土から離れ、どこか遠くに行き着いた気持ちになっている。離れれば離れるほど、進化、進歩、飛躍、躍進、進展したつもりになっている。
でも、答えは元々足元にあった。
それが、全てを与えてくれる「土」。大地。
原点に還ることは、土に還ること。
土に還ることは、本質を知ること。
でも、人は、なかなかそれができないままでいる。
まだまだ、土は、遠い。
「かみさまとかいう名前を付けるんじゃなくて、世の中には摂理ってものがあるわけ。その自然の摂理がうまく動いているわけよ。その結果として起きることが、全ての世の中の事象であって、正しく真っ直ぐに生きている人間は、必ず最後にはうまくいくようになってる。でもね、簡単にうまくいっちゃ面白くないから、わざと障害物がいっぱい置いてあるわけよ(笑) そういうもんなんだよ。それを乗り越えて、また一段上にあがっていくものなんだ。」
「でもさ、簡単にさ、強くなれったってさ、なれないよ。強くなろうと思ってなるもんじゃないんだよ。勝手に強くなるんだよ。色んな障害を乗り越えるたびに強くなっていく。それが自然の形であるんだ。だからね、もっと色んなことが起きなければ面白くない。もっと一杯あったほうがいいよ。」
リチャード・コシミズ
@
とある人に、「最近、強くなったね」と言われた。
自分じゃどうか分からない。変わったつもりもないし、変わったとも思えない。でも、よくよく考えてみると、昔の自分と比べて、些細なことで感情を荒げなくなったし、ちょっとしたことで恐怖を感じたり、ドキドキハラハラしなくなったのに気がついた。
気がつけば、怖いものがなくなっていた。
いつからだろう。よく分からない。
ただ、これまでは、逃げることばかり、眼を背けることばかりだった僕は、以前のように、なにかに抗うようなことはなくなった。全てに意味があることを、あの畑のあの土に教わってからは、全ての必然性を理解し、なにごとも受け入れ、消化し、傍受する姿勢で挑んできた。
すると、目の前から恐怖が消え、全てに対する感謝の念が生まれるようになった。
これが「強くなった」という言葉の解釈の正しい分析かどうかは分からないけれど、この1年で、僕の中で起こった一番大きな変化はそれだ。
あの畑の、あの人はこうおっしゃっていた。
「30年?まだまだ、だ。この土はもっともっと良くなる。あと20年、30年経てば、今以上に肥毒が抜けて、さらにいい品質の作物ができるようになる。別に自分の世代で終わりのことじゃない。自然栽培は永続可能な農業。自分たちより後の世代は、現状では見ることのできない、もっととんでもない自然の姿を、いずれ見ることになるだろう。」
氏は、こうも言う。
「強欲さは無用だが、上を目指す飽くなき欲は、なにかを達成するためには必ずもとめられる」、と。
そう。逃げたらそこで終わり。
自分をより向上させるためのメッセージを読み取って、それと真っ向から対峙することでしか、人は強くなれない。
いつでも、どんなときでも、「終わりはない」「上を目指す」という心が、人を育てる。
我を忘れてその研鑽を積み重ねることこそが、人を強くする糧。
日本人は戦後、みるみる内に、弱くなった。
そうすることで利益を得る連中がいたからだ。
これからの日本人は、いや、これからを生きる全ての人は、強くならなければいけない。
自然に順応し、善悪を分別せず、本質を捉え、全てを受け入れ抗うことをしない心を持った人間が、世の中を動かしていく。
そういう人間が、自然の摂理に選別される。
そんな時代は、もう既に始まっている。
日本人よ。
強く、あれ。
自 幼 常 為 旅 いとけなきときより つねに たびをなし
遥 春 駿 馬 驕 はるに あいて しゅんめ おごる
前 程 宜 進 歩 ぜんてい よろしく ほをすすむべし
得 箭 降 青 霄 やの せいしょうより くだるをえん
小さな子供のころから常に旅を続けてきた。人生とはそのように変転きわまりないものだ。
しかし春になれば馬が勇み立つように、人も時機が来れば大いに活躍できる。今がその時だ。
これからの前途は何事もまっすぐ前を向いて進んでいくことがよい。
そうすれば、天が降した幸いの矢があたるように、自然に物事がうまくいくようになり、幸福となるであろう。
労力を惜しまず、活発に仕事をする人は幸せを得る。正直にしていれば天の恵を受けて成功し、不正直ならば逆に天罰がある。神仏の加護を祈り、すすんで事にあたるように。
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という意味があるらしい。
正月、体調不良で寝込んでいたときに見た夢があった。その夢は、僕が中学2年生のころから、今日まで出会ってきた人たちの中でも、特に大きな存在であった人たちとの出会いのシーンや、会話のシーンを、全て総ざらいしたかのような長い夢で、「あ、だから今ここにいるんだ」と思い出して目が醒めた。
その翌日、とある神社に初詣にいったんだけど、そのときに引いたおみくじが冒頭のもの。なんだか鳥肌が立った。昨年1年かけて僕が学んだことのおさらいというか、そのことを見越した上でのメッセージというか・・・
僕は今でも無神論者ではあるし、なにか一つの事物事象や組織に傾倒することはないけれど、やはり去年に出会ったさまざまな出来事を振り返ってみると、「自然の摂理」の厳しさと懐の広さをつくづく感じる。
神さまという表現はあまり好きではないけれど、日本人にとっての神というのは八百万の神。身の回りにある全て、すなわち自然界に対する畏敬の念こそが、神そのものなんだと思う。
その念というのは、決して恐れおののくという意味ではなくて、そこにある自然と、それらの恵に生かされていることへの感謝の念だと僕は考えるそれが分かったからこそ、僕はあのタイミングで伊勢神宮に呼ばれ、あの儀式、現象に立ち会うことができたのだと思う。
やはり、自然に順応した食生活、思考、行動、判断こそが、今、多くの日本人に求められているのではないかと、強く感じた。その姿勢こそが、風向きを変える大きな力になる、と。
僕は、その感性を磨くために、今日も土と向き合っている。
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上の映像は、玉増さんところで紹介されていたもの。何度か見ているうちに、不思議な気分にさせられたので、こちらでもリンクしてみた。
世界には、さまざまな国があって、民族がいて、人がいて、多様性の中、バランスを調和しながら成り立っている。
その多様性や調和を破壊し、全てを一つにまとめようとしているのが、アシュケナージユダヤハザールの連中。僕がこうしてのんきにキーボードをカチャカチャとタイピングしている今でも、ガザでは彼らイスラエルユダヤ軍による大量虐殺が行われている。
でも、そんな彼らの、実に400年以上に渡る歴史もそろそろ終わり。風向きは既に変わった。地球や人類史は、長い長い歴史という積み重ねの旅を終え、ようやく現時点まで辿り着いた。
もちろん、僕らの世代で全てが解決するとは思えない。今の時代は、まだまだほんの始まりの時代。本当に世の中が変わってくるのは、恐らく僕らの孫の世代か、もう少し先のことかもしれない。
だからこそ、伝えることの大切さ。残すことの大切さ。
それを、ここにきてようやく、少しだけ感じることができるようになった。
以下、僕の師匠であられる、健康かむかむ塾 塾長の斉藤一治氏のブログから引用する。
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「いつでも、死んでやる」と言う気概が重要で、これがあれば、核など何の威力も無くなる。日本人全員が、この気概を持っていれば、核を投下する意味が無くなってしまう。
日本人が一人もいない日本列島など占領・支配する意味が無くなる。
「核」という「物質」に対抗するには、そのような気概・心・精神を持つしかない。
玄米食で病気を治し、長生きしたところで、それだけでは何の意味もない。「いのち根性が汚い」だけだ。
「奴隷」が玄米食で健康になり、長生きして喜ぶのは「ご主人様」だけだ。
少なくともマクロビオティックの創始者である桜沢如一先生は「ご主人様」をしっかと見据え、厳しく糾弾していた。
その末裔である人たちは、その本質的な問題には、決して触れようとしない。
「マクロビオティック」普及・商いの故に。
(以上、引用終了)
というわけで、以前「僕はマクロではない」というエントリをしたことがあるんだけれど、マクロビオティックを生み出した桜沢如一氏は、僕にとんでもない影響を与えた人物である。そして、氏の生み出した無双原理という考え方もまた、現時点での僕を形作る要素となって、僕の心に大きく君臨している。
しかし、マクロビオティック・無双原理は、いうなれば自然界の一面を捉えるための、一つの指標であると僕は考えている。
そもそもマクロビオティックというものが、食事理論などという誤った認識をされはじめて、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
マクロは、決して食事理論などという安っぽいものじゃない。
桜沢如一という人の、ある意味では生き様だと、僕は勝手に捉えてる。でも、その生き様は、一人の人間の生き様に留まることなく、宇宙の原理、自然の摂理を紐解いた。
ところが、いつのまにか「マクロビオティック」は、一部の営利団体の金儲けの道具となり、まるで藤子・F・不二夫が死んだ後のドラえもんのような扱いになってしまった。
ナントカジャパンとか、○○とか、フタを開けてみても、そこに本質はなかった。
ユダヤの「ユ」の字もありゃしない。
世の中的に安全だということになっているだけの有機野菜を売って、お金という実態のない幻想を蓄積するだけ。
なにごとも理論や学問だけに集約してしまっては終わりだというのは、僕の考え。
死に対して恐怖した時点で、全ては負け。これも僕の考え。
もちろん、マクロビオティックや玄米菜食自体は、悪いことじゃないと思うし、僕もそれがあったからこそ、今の健康な体がある。玄米は今でも僕にとっての最大のパワーの源だ。それに、50年以上も昔に、量子力学や陰陽から、常温核融合の可能性を見出していた桜沢氏の洞察力は、想像するに難くない。
問題は、氏の編み出した(?)マクロビオティックという哲学理論の意味合いが、完全に捻じ曲げられた形で、世に蔓延しているということ。
マクロビオティックは、玄米菜食のことだと思われている。
そして、土壌にうんちやおしっこをぶん撒く有機栽培のものが最高に安全だと思わせるような、世間の誘導。
「まくろ」と呼ばれる食事理論の多くは、うんちやおしっこで作られた野菜がいいとされている。
でも、うんちやおしっこが、他のなによりも土壌を汚染する害毒だということは、あまり知られていない。
そして、畑や土に、うんちやおしっこを撒かずとも、立派で美味しい米や野菜を作ることができるということも、あまり知られていない。
有機サイコー運動。
火付け役は、アシュケナージユダヤハザールのみなさん。
つまり、まだ現時点での世の中が最高だと評するものは、最高じゃない。
なぜならそれが、彼らの作り出した世の中だから。
それこそが、事の本質。
本質に目を向けることの難しさ。
桜沢氏の想いは、一体どこへ。
新年一発目の独立党勉強会の様子がアップされた。
一瞬、「ん?・・・水?なんだ、水って」と思った。しかも、「水」というタイトルの勉強会の冒頭が、韓国の話。
鳥肌が立った。
リチャード・コシミズという存在は、一体どういう役割をもって選ばれ出てきた人なのだろうと。
僕だけじゃないはず。僕のここを読んでくださっている方の中には、どうして僕が鳥肌が立ったかは分かる方もいるはずだ。
日本は、火の国。
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ちょっとここ最近ドタバタとしていて、まだ動画を全部きちんと見れていないんだけれど、なんだか最近、時々なんだけど、独立党が独立党じゃなくなったような感覚になる。
もちろん悪い意味じゃなくて、良い意味で。
なんていうか、煮詰まってきたというか、形がしっかりしてきたというか、言葉ではうまく言い表せることができないんだけど、なんとなくそんな感じ。
洗練されてきた・・・?
んー、なんかちょっと違うけど、ようやく、来るべき荒波に対する準備が整ったというか・・
まぁいいや。
いずれにしても、水の問題は、農業の問題。
食や命と直結した、問題。
しばらく時間が掛かるけど、じっくり視ようと思う。
「私、○○だから、□□なの」
「僕は○○だから、□□になっちゃうんだよねぇ」
「○○が□□なのは、△△が★★だからなんだ」
@
多くの場合、最後につくのは「だから仕方が無い」の一言。
原因を外に求める姿勢は楽だ。
原因や理由を自分以外の何かに求めれば、最終的にはそれを意図的に排除することが可能で、一見、問題は解決したかのようにみえる。
しかし、原因が自分や内にあるとすれば、それは途端に排除できない「我」にぶち当たる。
だから多くの人は、自分に不都合な事実は、なにか自分以外のものに原因を求め、楽をしたがる。
自分を殺すことは、時に大きな苦痛を伴う。でも、原因が自分以外のものにあるとしてしまえば、殺すのは簡単だ。痛みはない。
「仕方が無い」の一言で、あっという間に苦しみは消えてなくなる。
けれども、本当の原因が消えてなくなることはない。
本質に目を向けられるか、否か。
病気?ガン?
病気が悪いのか。ガン細胞が原因なのか。そうじゃない。原因は自分。仮に病気などというものがこの世に存在するのであるとすれば、そうなってしまった根本原因は、自分。
自分を見直さず、ただただ現象レベルを取り除くことは、排除の理論。アシュケナージユダヤハザールが得意としてきた、分別の手段。
畑に虫がでた?病気がでた?
原因は気候なのか。天候なのか。隣の畑なのか。
そうじゃない。原因は、内にある。
長年使い続けた肥料や農薬が土壌に溜り、それを浄化するために、虫や病気はやってくる。
全て、必要があって起こること。
人は、文明は、科学は、自然が生み出す「必然性」をことごとく排除する。
薬、抗がん剤、農薬。
原因は全て、外にある。だから、それらを殺すための道具がそれ。
でも、その道具では、「なにか」を「こうだ」と決め付けている「自我」を殺すことはできない。
僕は、友人の死を通じてガンという名の病気と向かい合い、原因を内に求める姿勢によって、無から有を生み出す農業に出会い、その二つの全く違った要素の奥底に流れる、全く同じリズムで刻まれる「脈」を感じることができた。排除の理論が根本的な原因を取り除くためには役立たないことに気がついた。
だから今、僕はこの土の上にいる。
答えは案外簡単だった。
全てには必然性があって、それは自然の摂理。そして、身の回りに起こる現象を生み出しているのは、自分の心。
黄色いものを、赤と捉えようが、青としようが、最終的に自然はモノクロの世界。
無色透明、無味無臭のものに、わざわざ色をつけ、味をつけ、臭いをつけ、「まずいし臭い」と叫んでいた自分の姿を見つけた。
その自分を殺したとき、なにかを区別して、解釈して、分別することの無意味さを知った。
全ては皆繋がっていて、同じもの。
そして、全ては全く別々のもの。
二重性。
「自然農法というのは、なにも特別なことじゃない。ただ、今は世の中の「普通」がおかしくなってしまっているから、そう見えるだけ。もちろん、無肥料無農薬なら自然農法かといえば、そうでもない。
大切なのは「特殊になるな」ということだ。特殊になってしまっては、なにも広まらない。
「あいつは変わりものだからできたんだ。」と、そういわれてお終いだ。それでいいのか。いいわけがない。もしかしたら、もう間に合わないところまできているかもしれないこの時代に、それでいいわけがない。
○○農法だとか、□□式農法だというが、結局どれも特殊になった結果、だから広まらない。
私の農法は、別に○○農法でもないし、自分で編み出した農法でもない。なにも特殊なことがない、本来当たり前のことだ。だから本も書かない、いや、書くこともできないし、教えることもない。」
僕の大好きな、とある「本物の」自然農法家の方の言葉
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僕は、あまり普段人に相談することはない。もちろん誰かとなにかを共有している場合のことではなくて、自分の人生や生き方についてのこと。
相談なんてしたのは、最後、いつだろう。確か高校2年生のころかな。音楽とギターに出会った後の僕は、誰かになにかを相談したり、教えを乞うことは一度もなかったように思う。
「ねぇねぇ、私○○なんだけど、どうすればいいと思う?」
「私さぁ、今○○してるんだけどどう思う?」
こんな台詞、巷じゃよく聞く。
でも、僕がこれまで歩んできた僕なりのちっぽけな人生の中では、誰かにニコニコと近づき、笑顔でなにかの相談にのるような輩は、僕が昔多用していた、円高ドル安で価値が暴落し切った言葉で表現するならば、「バカ」と「ニセモノ」という言葉がぴったりの連中ばっかりだった。
いつだって、なんだって、決めるのは自分。自分の生き方を決めるのは、自分以外には、誰もいない。
相談はヒントになる?まさか。
僕の人生の場合、振り返ってみれば、誰かになにかを相談することで出た結論は、どれも不正解ばかりだった。
なぜなら、僕の人生は僕のもので、誰かのものではないからで、全てを自分で決めるようになってから、ようやくチラホラと正解っぽいものが見え隠れするようになってきた。
それに、僕が今まで出会ってきた「本物たち」は、決して気安く誰かの相談に乗ったりするような人たちじゃなかった。たとえ僕があとのき、「本物たち」になにかを相談したとしても、きっと彼らはなにも言葉をくれなかっただろう。それどころか、冷たく突き放されて、二度と口を開くことはなかったに違いない。
それが分かっていたから、彼らになにかを問いかけることは、あえてしなかった。
でも、彼らは黙っていても、自然と、僕の目の前で、自分なりの生き様を、背中を通じて見せてくれた。言葉はほとんどない。
僕はそうして、ここ10年、いくつもの背中や生き様を通して、一つ一つ学び、自分なりに考え、結論を出し、今日までやってきた。
本物は多くを語らないし、けれども、誰よりも本当のことを知っている。
そこにヒントを見出すために必要なのは、決して言葉じゃない。
通ずるもの。
目。
顔。
空気。
肌。
粋。
なにかを感じ取る、感受性。
誰かになにかを相談しているうちは、道は、決して見えない。
これが、僕なりの、人生観。
強い意志。決めたことは、なにがあっても確実にやりぬく心粋は、自分のみから生まれる。
全てのことは必要があって起こることで、そこには必ずなにかしらの意味が込められている。
ここ最近、バカの一つ覚えのようにそんなことを頭の中で繰り返してるんだけど、僕はそれは間違いないと勝手に思い込むことに決めている。
例えそうではなくても、そのスタンスを決め込むことは、非常に大きな力になることに気がついたからだ。
必然性と、それに起因する現象に潜む意味を追い求め、正確に把握し、理解する姿勢。
僕にとっての今年のテーマはそれ。
日々漫然と生きた僕と、その姿勢を保った僕。
大した差はなくても、5年後にはそれが大きな違いとなって現れる。
その後が、本当の勝負。
いざ。
みなさま、新年あけましておめでとうございます。
既に2009年1月5日。ご挨拶が遅れたことをお詫び申し上げます。
お正月。
2007年、2008年は僕にとっては、例の無い激動の2年間でした。730日、気を抜くことのできない1年だったせいもあり、年末年始という穏やかなムードの中、一気に気が抜けたのか、珍しく体調不良に犯されまして、ここ最近の自分のテキトーな食生活に想いを馳せる1週間でありました。
ここ何ヶ月か、以前より玄米を食べる機会を減らしていたのですが、やはりそうすることで体重が増え、ウィルスの横行(?)を許すことになったこの体。改めて食と精神の関係性を思い知らされました。
年賀状をくださったみなさん、メールでご連絡いただいたみなさん、本当にありがとうございました。返事を返せず申し訳ありません。また、年明けにお会いすることとなっていた○○さん、連絡もできずにごめんなさい。お許しをば。
この場を借りて新年のご挨拶と代えさせていただければ幸いです。
本年も、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
(あと何日か、体調を取り戻すことに専念したいと思います)
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