2009年4月
言葉さえ
僕が20年以上使いつづけている、大切な食卓のうえに堂々と登ってしっぽを振る生意気な愛犬 暮夢もようやく1歳。少しずつ立派な顔つき、体つきになってきた。
初代愛犬の伊歩がこのテーブルに乗ったとしたら、それはそれは怖ろしい拷問が待ち受けていたわけだけれど、暮夢は完全放任主義(?)で育てているから、おかげさまで、ちょこまかと細かいイタズラはするようになったものの、すくすくと元気に、自然体で成長してくれている。我が家にきたころからあった、原因不明の喘息みたいな発作も、ようやくなくなってひと安心というところ。
毎晩、就寝直前たった5分の、愛犬との秘密トレーニングが功を奏したようだ。
僕が「犬」という生き物と一緒に生活をはじめてから、もう5年ほどの月日が経とうとしているんだけど、それにしても犬という生き物は、本当に不思議な生き物だと思う。
言葉が通じないのに、僕がしゃべる言葉の意味をほぼ完全に理解してくれているようで、怒鳴ったり、殴ったりしなくても、きちんということを聞いてくれる。
寝るぞといえば一緒に寝てくれるし、触るなといえば触らないし、やめろといえばやめるし、留守番してくれといえば、1日でも2日でもだまってじっと留守番をしてくれる。(そうじゃないことも沢山あるけどw)
もちろん彼女にも自我というものがあるから、僕がなんといおうと、したいと思ったことは絶対に曲げない芯の強さもある。そんなとき僕は、「暮夢は望んでここにきたわけじゃなくて、自分が連れてきたんだ」と思って、素直にやりたいようにさせている。
初代の伊歩に対しては、とにかく恐怖と暴力(?)でいうことを聞かせるようなやり方ばかりしてしまった僕だけれども、暮夢に対しては、それを一切やめた。
しつけることをやめたんだ。
なぜなら、僕にとって愛犬をしつけることは、自分の都合に合わせて、犬を奴隷化することだと思ったから。そして、彼女が本当にしたいと思っていることを尊重すれば、必ず自分が望んでいることを、犬は理解してくれるということに気が付いたからだ。
お陰さまで、二代目の愛犬 暮夢は、言葉や命令を使わなくても、僕の言うことを聞いてくれるようになった。
僕と暮夢の立場は同等。上も下もない。ただ、人間と犬という役割的な分別があるだけで、主従関係はない。
あるのは、気持ちや心という見えないもの。そして、お互いを尊重しあうという姿勢だけだ。
自然体の犬に、しつけや言葉は必要ないことに、気が付いた。
ひどいことをやっているのは、ユダヤ国際金融権力中枢資本
別に言い過ぎでもなんでもなくて、世の中でひどいことをやっているのは、ユダヤ国際金融権力中枢資本。これは、疑いようのない事実だ。
金や宗教目的のために戦争起こして、罪もない人を何千万人も殺したり、農薬や肥料、遺伝子組み換え作物や食品添加物なんかで一般庶民の体や精神をむしばみ、薬毒や対処療法医学で金もうけと殺戮をくり返し、石油や原子力のエネルギで世の中を支配しているのは、間違いなくユダヤ人。
ただ、ユダヤ人=悪なのではなく、そういった権力中枢に関わっている人間の大多数がユダヤ系の血筋をもった人間たちで、それらも全て大きな視野で見れば、必要あってのこと。
彼らアシュケナージユダヤハザールは、肥料や農薬を入れて、肥毒のたまった畑に現れる病害虫と同じ。原因やきっかけを与えてくれる存在なのだから、ある意味感謝しなきゃいけない。
もちろん、現実的、現象的に彼らがやっていることは許されることではないけれども、そんな彼らが没落して、次の新しい時代がはじまる狭間の時代を生きていられる自分の人生にも、感謝しなければいけないと思う。
ユダヤ人が悪いんじゃない。
悪いやつらがユダヤ人なんだ。
あるのは意思のみ
畑仕事を終えて、夜。
まっくら闇のなか、ただ一人愛車のヴェスパに乗って、田んぼのあぜ道をひたすらに走る。
ヘルメットのシールド越しに見上げる空は、星くずでいっぱいだ。
都会にいたころには、絶対に見ることができなかった、満天の星空。
そう、まさに、絵に描いたような、満天の星空。
ふとバイクを止めて、シールドをあげ、空を見上げる。
周りにはなにもない。あるのは、田んぼと、そこで鳴くカエルの声くらいなもの。
うっすらと目を閉じると、まるで空に吸い込まれるかのような感覚。透明な空気。
僕が、宇宙と「神」を感じる瞬間のひとつだ。
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ふと、考えた。いつもの、くだらない妄想。
僕も、星も、空気も、田んぼも、カエルも、皆、もともとは、量子という粒子の塊だ、って。
みんな、一緒。
自然も、宇宙も、草も、虫も、動物も、人も、空気も、みんな、一緒。
一体。
たまたま、今、僕は僕であるだけで、カエルはカエルであるだけの話。材質は同じ。違うのは、状態とタイミング。ただそれだけ。
そう考えたとき、一瞬目の前が砂嵐に見えた。
テレビの中の、あの砂嵐。そんな感覚。
大気と自分が、ものすごくマクロな視点でみていくと、まったく同じツブツブで出来ているということが、僕の中の、くだらないイメージを膨らませる。
「じぃく君、最後は、なにも無い。どこまでいっても無なんだよ。それが宇宙だ。だから、なにも考えなくたっていい。感じるだけでいいんだ」
ある人の言葉が浮んだ。
確かにそうだ。すべては、最終的に、どこまでいっても「無」なんだ。
ただ、それと同時に、今ここで、この瞬間に、空気を吸い、生きている自分の意識や意思という精神や心が、すべての無という属性に反する「有」であることにも、気が付く。
ありとあらゆる物質は、「無」だ。
でも、物質を介在して、呼吸し、考え、感じ、笑い、泣き、生きている僕という存在の精神や魂は、物質と比較した場合は、「有」だと思った。
正しいか、間違っているのかは分からない。でも、その瞬間は、なぜだか「有」だと思えた。
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いつの時代も、形ある物質は「無」に還る。
ただ、その「無」に起因する「有」は、決して消えることもない。
最終的に、すべては「無」だ。それは分かってる。
でも、無の中に、「無と有」が共存しているというこの感覚だけは、決して忘れたくない。
そう思った。
空気を吸う。
吐く。
明日が、始まる。
季節は、もう春。
4.19 独立党学習交流会
http://video.google.com/videoplay?docid=1448005534830611298
(秋に粗く、大きく耕し、冬場の間はしっかりと土を乾燥させる自然農法栽培の田んぼ。そのことが、また次の大きな実りにつながるんだそうだ)
今回の映像をみて驚いたのは 小吹さんの胸元が超セクシー 勉強会の模様とは違った編集済みの映像を織り交ぜた新しい手法の動画配信。
統一協会に関する動画は、僕はまだあまり見たことがなかったので、非常に興味深く拝見させていただいた。
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それにしても、ここのところ「ケムトレイル」に続いて、独立党周辺で話題(?)になっている「アセンション」と「フォトンベルト」についての、コシミズさんの洞察はさすがだなと、改めて思わされた。
確かに、僕がコシミズさんに出会ったころから、「アセンション」や「フォトンベルト」という単語はよく見かけていた。ただ、そういう内容を扱っているサイトは、あまり僕の感性にはあわない内容やデザインのページが多かったので、「ケムトレイル」同様、あまり興味を寄せたことはない。
(ハリウッドで「2012」なんていう映画をつくっている時点で、そのキーワードに込められた彼らの思惑を理解することは容易だった。)
正直なところ僕は、2009年から2012年の4年間が、今を生きる僕ら人間にとって、大きな転換期であることは間違いないと思っている。
でもそれは、「アセンション」とか「フォトンベルト」というものとは無関係。そして、根拠もない。ただの直感だ。(第一、もうそのネーミング自体がインチキ臭ぷんぷんじゃないの)
強いてあるとすれば、2013年に控えている伊勢の式年遷宮だろうか。
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今回の独立党学習会の映像を見て、なぜ僕自身が2012年~2013年に意識を取られていたかの理由が、なんとなく分かったような気がする。
コシミズさんが今回公開した洞察・推測を元に考えるのならば、彼らユダヤ権力や北朝鮮カルトは、2013年の式年遷宮の前に、なんとか自分たちの思惑を完成させんとしているのではないか、と思う。
なぜなら、彼らユダヤ権力や北朝鮮カルトは、ある側面では日本の伊勢や出雲を発祥(?)にした民族の一部でもあり、日本古神道でいうところの八百万の神を、宗教的に恐れている。
それは、大本の出口王仁三郎や、世界救世教の岡田茂吉、無双原理の桜沢如一などの先人たちが、50年以上も前から、アシュケナージユダヤハザールの本質に触れ、また、常温核融合の実現性を訴えていた事実からも、用意に汲み取ることができる。現実の事象だけでは決してみえてくることのない、隠された事実や歴史があるのだ。
そう。
彼らは、日本という国の民族や伝統、そして、その存在性そのものに対して、大きな畏怖の念を抱いている。
だから、僕ら日本人は、堂々と、彼らに真正面からぶつかっていけばいい。そうすれば、確実に道は開ける。
僕は、そう信じている。
決して、悪い時代じゃない。
降りてゆく生き方
(以下、公式HPイントロダクションより引用)
第二次大戦後、私たちは、ひたすらに右肩上がりの経済成長と物質的豊かさ、そして個人的自由を求め続けてきました。
そしてその努力は結実し、私たちはかつてないほど、豊かで便利で自由な社会を実現しました。私たちはみな、しあわせになるはずでした。
しかし、そこにあったのは、幸福に満ち溢れた世界ではなく、暗雲が立ち込めるが如く不安に満ちた社会でした。
世界的な金融恐慌、かつてあり得なかった凶悪犯罪や少年犯罪の増加、数々の偽装問題、年間3万人を超える自殺、派遣切り、うつ病の激増、格差社会・・・現代の日本人の抱える不安は数知れません。
いったい、私たちは、これからどのように生きていったらよいのだろうか?どうやったら不安から脱し、明るい未来への希望を取り戻せるのだろうか?
(以上抜粋)
肥料も農薬も使わず、なにに頼ることもなく作物を永続してつくり続ける自然農法栽培。
映画「降りてゆく生き方」は、その自然農法栽培を通じて学べる人生観や自然観をひとつのテーマとして制作された映画。
主演の武田鉄也さんは、この映画に出演することではじめて自然栽培の野菜に出会い、その味や、野菜のもつ本来の力に心底驚いたという。今では自然栽培の大ファンになってくださったそうだ。
公開は映画館のみで、非常にローカルなスケジュールのため、僕はこの映画を見られるかどうかは分からないけれど、「降りてゆく生き方」というタイトルを聞いたとき、やはり、僕の大好きなとある自然農法家の方の言葉が頭をよぎった。
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「真に出来る人間、道を切り開くだけの力をもった人間というのは、たとえ自身がある程度上り詰めたとしても、元の低いところ、目線に戻って、再度なにかを実行できる人間だ」
この言葉、ひと言でいえば、「社員の目を気にせずトイレ掃除をしてしまう会社の社長」というところだろうか。
もちろん、この言葉は、氏が映画のことを知った上で教えてくださった言葉じゃない。
それに、僕はまだ「降りてゆく生き方」という映画を視たわけではないから、ただ、偶然、なんとなくタイトルとリンクしただけのこと。
たった数秒の短い言葉には、数多くの背景や意味合いが含まれているような気がした。
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速く歩くことができる人は、ゆっくりと歩くこともできる。
しかし、いつしか人は、速く歩くことだけが、ゆっくりと歩くことよりも「優れている」ことだと思い込まされて、本来自然のもつリズムや、ありのままの、無理のない自然体で生きてゆく姿を忘れてしまったような気がする。
速く歩くことならできるのに、なぜかゆっくりと歩くことができなくなってしまった、現代社会。 それどころか、もっと速く、もっともっと速くと、元に戻る余裕すらも奪われ、「優れる」とされているものばかりを追い求めてきた。
僕は、速く歩くことができるからといって、必ずしも速く歩く必要性があるかといえば、決してそんなことはないと思う。
でも、それが、今の世の中。
誰もが、追い求めることばかりを覚え、振り返ることを忘れた。
誰もが、手にすることばかりを追い求め、手放すことを忘れた。
誰もが、降りてゆく生き方を、忘れた。
そんな気がする。
もちろんこの僕にも、それが当てはまることは沢山あるし、だからこそ今、この地に立って、この土に向かうことができているのだろう。
大切なのは、現時点の立場や目線だけで物事を考えるのではなくて、一度立ち止まって、過去の自分、昔の姿、ありのままの視点に立って、もう一度じっくりと考え直すことじゃないかな、なんて思う。
今、自分が立っている場所から、ほんの少しでいいから、降りる勇気。
振り返ること。観念的二重化。
ありとあらゆるものがゆき過ぎて、限界を迎えようとしているこの時代、本来のリズムを取り戻すことが求められてくるんじゃないかなと思う。
だって、今は大人な人間も、誰もがみんな、最初はタネであり、赤ん坊だったんだもの。
お金の純度
(やわらかな光の中で咲き誇る大根の花 )
人を殺して、人から盗んだ100万円。
ふつうに働いて、ふつうに稼いだ10万円。
どちらに価値があるだろうなんて、どうでもいいことを、ふと考えた。僕は、いつでも、どうでもいいことを考えるのが得意だ。
もちろん、お金や紙幣なんかに価値がないのは分かっているから、たとえそれが10万だろうと100万だろうと、対して変わりゃしない。
でも、最初に挙げた二つは、絶対に違うとも思う。
今の世の中、一般的には、誰もが食うために働いている。
「自分は、食うためには働かない。働くために食うんだ」、というのは、僕が大好きな、とある自然農法家の方の言葉で、そういう人も少なからず世の中にはいらっしゃる。
ただ、残念ながら今の世の中にある大抵のものは、お金を手に入れるためにあって、ほとんどの人は、そういったもののために生きているように、僕にはみえる。
今、そこらじゅうで売られているものは、お金を払ってそれを買った人がどうなるかは、あまり考えてつくられていない。
ものは、それをつくった側、それを売る側が、いかに利益や収益をあげ、少しでも他人よりも大きな結果を得られるかどうかを重視してつくられ、販売されている。
(「健康食品」と呼ばれるものが、その代表的な例だ。それを買って口にする側の健康は一切考えられていない。もし本当に買う側の健康を考えるのならば、健康食品などをつくることはできない。)
今の世の中、ほとんどのものは、買う側のためにあるんじゃない。売る側、作る側が得る、お金のためにある。
もちろん、お金というのは、社会の発展に必要があったからこそ生まれた、自然現象そのもの。だから、否定するつもりはないし、否定することもできない。
ただ、それをどういう経緯で手に入れたかで、「生きたお金」かどうかは、分かれるような気がしないでもない。
僕はきっと、人を殺したり、人を騙したり、人から盗んだお金があっても、うまい棒一本すら、買えないと思う。
それは、100万円だろうと、1億円だろうと、金額は関係ない。使えないものは、きっと、使えない。(わかんない、ふつうに使えるかもしれないけどw)
でも、自分が手間と時間と愛情をかけて、肥料も農薬も使わずに作った野菜を売って、手に入れることができたお金ならば、それがたとえ10円だろうと、100円だろうと、構わないと、僕なんかは思う。なぜならば、いまどきこんなに純度の高い、ありがたみのある小銭は珍しいと思うからだ。
大切なのは、金額の大小じゃない。
自分が納得いく形で得られたものならば、きっと、人を騙して奪った大金よりも純度は高い。
もちろん、つくった野菜が「買った人のため」だなんておこがましいことは、みじんも思っちゃいない。食べものが安心安全なんて、そもそも当たり前のことなんだもの。
でも、これまでも、これからも、食べる人の生命や健康を担っていくべき本来の農業「自然農法」は、お金のためだけにあってはいけないんだと、僕は考えてる。
農業は、人間社会の下地であって、国民のいのちを支える大切なもの。現代社会における、アシュケナージユダヤハザールの生み出した金融システムに、その身をあずけてはいけない。
だから僕は、たとえ少なくても、純度の高いお金があれば、それでいいと思う。
そもそも、人間にとって本当に必要なものなんて、限られているんだ。
生まれたときからあるものが、「あって当たり前のもの」と思い込まされているだけだ。それが現代社会。洗脳。
本当は必要ないのに、必要だという設定になっているだけのものなんて、僕にはいらない。
憎悪や嫌悪で水増しされ、人工的に増幅された紙幣も、いらない。
なぜならば、今の僕に、社会一般で言われているような、いわゆる贅沢なんか必要ないし、自分が納得いく形で手に入れたお金ならば、それが多かろうが少なかろうが、それは、自分にとって最大限の手に入れられるものであろうはずだからだ。
そもそも、贅沢と無駄は、同義。それが、僕が森博嗣先生から教わったこと。
それに人は、純度さえあれば、なんだって、できる。
世の中無駄が多すぎるから、人間が、思ったように生きることができなくなったんじゃないかな。
ケムトレイラナイ
コシミズさんと独立党周辺で、めずらしく「ケムトレイル」が話題にあがっていた様子。
(今日書く文章は、別に僕が独立党員だからとか、コシミズさんや小吹さんと意思を共にしているからだとか、そういうことはまったく関係ない。ただ単純に、僕が僕として感じたことを、チンチロリンっと書くだけなので、そこんところ宜しくお願いしまっす。)
僕は、あまりケムトレイルというものを詳しくない。なぜなら、あまり興味がないからで、僕は、興味のないものには、まったくといっていいほど関心を寄せないという悪いクセがある。
きっと、ケムトレイルには、いろいろな情報があるのだろうし、いろいろな説があるのだろと思う。
ただ、僕個人としては、彼らアシュケナージユダヤハザール(が首謀なのかな・・?)が、白昼堂々と、誰かの目にとまるような形で、そういったことをやるとは、あんまり考えられない。
なぜなら、彼らの巧妙な手口は、日常や常識に、さも当然のごとく、「気が付けばそこにあった」というような形で、自分たちの思惑を滑り込ませてくるからだ。
もちろん、飛行機雲も日常といえば日常なのかもしれないけれど、なんとなくしっくりこない。
だって、もし地上に住む人たちの健康やなにかを悪化させるのが目的のひとつとしてあるのであれば、それはもう戦後数十年かけて、肉食、精白食、乳製品、農薬、化学肥料、有機肥料、食品添加物、遺伝子組み換え作物、薬や洗剤なんかの、ありとあらゆる化学化学物質を経口摂取させることで、日本人の体をめためたにし尽くしてきた歴史があるじゃない。
それをいまさら、自分たちの同胞が住む土地の上空で、わざわざなにかをぶち撒いたりするというのは、僕としては、あんまり彼らっぽくないと思ったりする。
そりゃぁもしかしたらゼロではないのかもしれないし、僕もあの空の雲がおかしいなと思うことはある。
普段畑にいて、空に飛行機雲が見えると、
「じぃくさん、今日もまた懲りずにけむとれいるですねぃ」
「そうだねぇ、 ぉιょぅくん。あ っ は っ は 」
な~んてコントみたいな会話をすることはあるけど、そんなことをしなくても、彼らはマックやスタバの洗脳で、日本人のこころとからだの健康をほぼ完全に手中に収めてるんだから、今さらそんなハイリスクローリターンなことはしないような気がする。あるとすれば、二次的ななにかが目的としてあるときくらいなものだろう。
それに、コシミズさんや独立党のスタンスは、物事の中枢にある本質だけに、徹底的に目を向けることだから、仮にケムトレイルがあったとしても、それは本質からはかなりかけ離れているものなのだから、結局どうでもいいことなのだと思う。
毎度の繰り返しになるけれど、大切なのは、本質に目を向けること。それ以外のなにものでもない。
え?本質の定義?
そんなこといっているうちは、本質が見えるようにはならないよ。
一歩ずつ、近づく現実
遅ればせながら、荒田先生の常温核融合の追試成功(?)の記事を読んでみた。
@
2009/3/30 < JCF9報告 >
http://www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/page285.htm
3/28(土)、3/29(日)に静岡県産業経済会館でJCF9(第9回常温核融合研究会)が行われました。2日とも参加したので、各発表の内容を簡単に報告します。
●佐々木氏(神戸大学)
荒田吉明先生の実験の再現実験に関する研究。双子構造をもつ新装置を作成し、ナノサイズPd粒子も様々な種類のものを使ってArata実験をさらに詳細に調査。熱出力、圧力等の詳細な実験データを提示。Arata実験の再現に成功。本実験は神戸大学、高橋亮人先生、テクノバの共同研究。
●高橋亮人先生(大阪大学)
上の佐々木報告に追加する形の詳細説明。Arata実験が再現できたことを補正の効果などを交えて説明。重水素ガスを流した方が軽水素ガスの場合よりはるかに多くの過剰熱が出ている。中性子やガンマー線の発生はなし。ナノサイズの複粒子Pd/PdO2/ZrO2粒子(これに重水素を通すと過剰熱発生)の特殊な物性にも言及。メゾスコピック効果がどうの。
http://www10.ocn.ne.jp/~solid_fu/
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僕は科学者ではないし、幼稚園卒のただのおバカさんだから、難しいことはよく分からないけど、僕の知りえる限りでは、石油に代わる次世代の代替エネルギが登場することは決まってる。
もうアシュケナージユダヤハザールのロックフェラー石油利権は終わりを告げるんだ。
水素でも、電気でも、原子力でもない、次世代のエネルギ。
僕が生きている間に、どこまで実用化に近づくのかは分からないけど、確実に、事態は進んでいるようだ。
大は小を兼ねる
受け入れることと、受け入れれないこと。
どちらも同じことだけれど、やはり、受け入れることのほうが、どちらかといえば難しいと、僕は思う。
ただ、「大は小を兼ねる」といわれるように、全てを受け入れることは、自分のキャパシティのようなものを計るのには、ちょうどいい方法であるとも思う。
受け入れられないなにかがあるとしたら、それはきっと、自分のうつわがその事象よりも小さいということ。事象そのものに「原因」はない。ただ、自分の小ささに原因があるだけ。僕は、そう捉えている。
毎度まいどの繰り返しになるけれど、そもそも自然界の現象には、「いい、わるい」や、「善、悪」、「大、小」などの分別はない。
すべての要素を包括したものが、ひとつのものとしてただそこにあるのだけなのが、自然界の仕組み。
「受け入れる」と口でいうのは簡単だけど、実際にその姿勢を日常に取り込んでいくことは、本当に難しい。
ただ、受け入れれば、受け入れられることにつながる。
自然の摂理や力を取り入れられるようになる。
でも、僕は、そのために「受け入れる」のではなくて、そのほうが楽だからというのが本当のところ。
自分の捉え方次第で、すべてのものが変わるのならば、「いいな」と思えるものが多いほうがいいじゃん。
「いやだな」は、なるべく少ないほうがいい。
いやむしろ、そんなもの、ないほうがいい。
「まぁ、これもいいかな」。そう思って、許せる心が、欲しい。
いいなと思えるものに囲まれていたほうが、きっと楽しいはず。
でもそれは、なにかや誰かが用意してくれるのではなく、自分の捉え方という心がつくり出す。
それだけ。シンプルだからこそ、実行するのは、難しい。
ヤメカルト アラカルト
(約2年ぶりの桜。映像に収めた)
種まきと苗のお世話が忙しくて、ナマでは見られなかったんだけど、4月4日(土)の独立党勉強会「ヤメカルト」を見た。
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「宗教と信仰とは、イコールではない。宗教に入ることによって、神に近づくことができると思っているなら、それは間違い。安易すぎる。
ひとりでは神に近づけなくても、集団になれば神と接点ができると思っているとしたら、その理由はなぁに?と。
神に近づくっていうのは、そんなに簡単じゃない。そんなに甘くない。
人間が、自分というものを切磋琢磨して、自分ひとりでもいいレベルに上がっていけば、勝手に神さまが近づいてくるんであって、そのためには、宗教なんかいらないんだよ。
そもそも、宗教にはいること自体がおかしいの。これが僕の基本的な考え方。
でも、僕は、神の存在を信じる。
ただし、僕のいっている神というのは、要するにご先祖さまの霊であったり、何千年の間に、この世を旅立っていった魂が上のほうにあがっていって、沢山いらっしゃるわけよ。その方々のことを、僕は神と呼んでいる。
これは、日本神道でいうところの八百万の神。はっぴゃくまんの神がいるんだよ。
その魂がときどき降りてきて、人間として生まれかわってる。で、また、還っていく。これの繰り返し。
この人たちを、神とよぶなら、まぁ、神とよびましょう、と。
でも、その神々と接点をもつのために、宗教はいらない。
どうしたらいいか?空をみればいるじゃない。森をみればいい。
宗教に所属してお金を払ったり、一生懸命拝んだりする必要はどこにもない。神はそんなことを求めてない。そもそも神さまはお金いらないし、もらっても使えないんだよ。
お金を必要としない神さまのために、なんでお金出すの。
「バカじゃないの」、ということ。
ちょっと長く引用してみたけど、今回の勉強会、この言葉にすべてが込められているような気がした。
僕は最近、コシミズさんとお会いしていないし、たまに電話で話をしても、たわいも無い話しかしない。でも、どうしてか、最近のコシミズさんのスタンスの裏にあるなにかは、僕の今のそれと、ほぼ一致している。そこに、僕は大きな意味を見出している。
神。
この言葉は、昔大嫌いな言葉だった。
でも、僕は、あの日あの時、伊勢の内宮で、確かに神を見た。しかも、一度じゃない。二度、三度、その形のない姿を拝見させていただくことができた。
アマテラスオオミカミ?カザヒノニノミヤ?アメノマヒトツノカミ?
あれは、間違いなくエネルギ体だった。
僕は今でも無宗教だけれども、自然農法を通じて土に触れるようになってから、ことごとく、不可思議なできごとと出会うようになった。今までの自分の価値観が崩されるほどのできごとばかりだ。
すべてに意味を見出して、感謝の念を忘れずに生きること。たったのそれだけで、あらゆるものが見えてくるようになった。
八百万の神。
僕は、八百屋。
神さまは、残念ながら、いるようだ。
守られるのか、はじきだされるのか。
それは、自分の心次第。
自然順応、自然規範、自然尊重。
すべては、そこにある。
中心であること
真理は、常に、中心にある。
右も左も、前も後ろもない。
善も、悪も、闇も、光も、ない。
本質とは、中心のこと。
中心は、真理。
真ん中。
なにがあっても、ブレないこと。それこそが、中心であり、軸であり、自分であり、認め、受け入れるということ。
僕は、「自分中心」でいいと思う。なぜなら、人は誰でも自分が中心であるし、それ以外にあるのは、他人。
自分と他人。分別する。
ただしそれは、いわゆる「自己チュー」とは違う。
生きていれば、いろいろとある。生きていなくても、もちろんいろいろとある。
「自分は、いろいろなものに囲まれて生きて、活かされているんだ」という感覚。ビジョン。
自分を支えてくれるさまざまな要素は「点」であり、その点の集合が円であり、円は、自分を中心に、周りを取りかこむ。やさしく、あたたかく、包み込んでくれる。
だから、自分が中心。対自。
「自己チュー」は、きっとその逆。
自分が円で、点をつなげずバラバラのまま、自分という円の中に囲っている。つまり、即自。腐るほど、在る。
自分を中心に考えることができれば、対立物と自己を、分断、分別することができる。対自。
自己中心「的」に考えると、それは分別することをせず、受け入れないこと。即自。
分別することと、しないことは、同じ。
受け入れることと、受け入れないことも、同じ。
ただ、不思議なのは、「受け入れること」は、「分別すること」ではじめて生まれる、寛容性。
分別することで、実はその対象が、分別しきれない、「まったく同じもの」だということが分かるようになる。同じなら、受け入れればいい。
でも、分別することができなければ、同じであり、異なるままの状態。
二重性が生み出す、うつくしい矛盾。
それが分かったとき、本当の意味での心地よさを知った。
自然には、善悪がない。分別もなければ、判断もない。
ただ、あるのは、「中心」であるということ。
つまり、真理であり、揺るがないということ。
中心でいることの、むずかしさ。楽しさ。
それは、「自然体」でいるということ。
生きていれば、いろいろとある。
引きずり、引きずられ、それでも、すこしずつ、ほんのすこしずつ、中心に向かう姿は、美しいと思った。
真理に近づく。
本質を知る。
真実に出会う。
ここから。
桜、咲く。
日本の、春。
風が吹き、雪がとけ、日がのぼる。
種をまき、苗を育て、土と自然に向かう日々。
本格的な自然栽培。
春は、これから。
すべては、これから。
すべて、ここから。
日、水、土、人。
芽吹き、萌ゆる日。
咲く花、散る花、実る日。
はじまる。














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