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2009年6月

解釈 三度目

   Popo

「小さな犯罪でも動機のわからないものは沢山あります。大きな戦争でも、それは同じことです。テロだって、突き詰めていけば、動機なんてわからない。ただ、正義を装った言葉として解釈されているだけです」

「恨み辛みがあった、というものが多いと思うが・・・・」

「そう捉えられているだけです。どうしてやったんだ、ときかれれば、むしゃくしゃしてやったとか、頭に来ていたとか、なんとなくその場で思いついたことを話す。それが動機というものになった。まったくの幻想ですよ」

---------------(中略)----------------------------------------------------------------

「社会を恨んでいる、日本という国家を恨んでいる、人間のすべてを恨んでいる、幸せな状態を恨んでいる、自分以外のものすべてを恨んでいる・・・・・。なんだって言えます。言葉にすれば、どんなものでも理由にできる。そうすれば、どんなに不可思議なものではあっても、社会はとりあえずは納得してくれる。少なくとも、動機という空欄を埋めて、ファイルを片付けることができるというわけです」

「うん、わからないでもないけどね、それはかなり、極論ではないかな?」

「では犯罪が起こって、その犯人が捕まったとき、どうして動機を尋ねるのでしょうか?動機が正しければ、その犯罪が許されますか?」

「少なくとも、まず正当な理由があるものならば、裁判で罪が軽くなる可能性はあるんじゃないかな。どうしようもなくて犯行に及んだ、ということであれば、それなりに酌量されることになる」

「酌量することで、社会は何を得られますか?」

「うん、そうだね・・・、人に対する優しさかな」

「しかし、たとえば、殺された被害者の家族は、その分だけ、憎しみが増すでしょう」

「そういうことはある。たしかに、それはある。たとえば、犯人が未成年だったとか、心神喪失状態だったとか、そういった場合にえてして起こりえる問題だ」

「動機を明らかにすることで、あるいは、動機を分析することで、社会はその犯罪を未然に防ぐことができるでしょうか?」

「それも、ある程度の効果は期待できる、あるいは、可能じゃないかな。不平等があるならば、それを正して、そういった不満が起こらないような社会を作れば、犯罪を減らすことができる」

「そういった犯罪ならば、既に減っています。今はただ、大衆は犯人の動機を知って、同情したり、あるいは怒りを新たにしたり、呆れたり、そんな反応の感情を抱きたい、ただそれだけのことです。そうじゃないと、どう反応すれば良いのかがわからない。反応ができないものは収まりが悪い、というだけなのです。結局は、収納の問題で、レッテルを貼ろうとしているだけです」

「うーん、まぁそういった面はあるかもしれない。これだけニュースがショーになってしまうと、その場かぎりであっても、とりあえずの落としどころを用意する必要があるってことだね。実際には、裁判があって、ずっと長い期間かけて取調べや検査、診断が必要だ。でも、とにかくまずは言葉による一応の結論を欲しがる、というわけだ」

「そのとおりです。テロや戦争においても、それはまったく同じです。人は、言葉で解釈し、その言葉で怒りを覚える。こうして怒りを煽り、人を動かして、戦いを始める。あるいは、自分さえも、その言葉に酔ってしまう」

「そういうふうに、君は考えているんだ。冷めているね」

「冷めている、というのも、解釈ですよ。それで納得したい、というのであれば、けっこうです」


講談社ノベルス 森博嗣:著 「εに誓って」より抜粋

 この文章を自分のブログに転載するのは今日で3度目。

 人というのは、どこまでいっても「言葉」や「解釈」に、なにか大きな力があるとでも言わんばかりに、それらを妄信しているように思える。

 もちろん「言霊」というエネルギは存在するし、それは僕も最近の私生活で「言霊」というものの力の大きさは体感している。ただ、人は、自分の価値観から生まれる「言葉」や「解釈」が、自然の現象というか、事実や真相、真理、真実を表現・体現できているかのように、誤認しているのではないか? と疑問に思うことも多いのだ。

 例えば僕が、なにかを「黒」と表現・解釈したところで、事実事象が「黒」になるわけではない。

 自然の世界や自然の現象には、白も黒もなく、あるのは、ただ一つ、ありのままの姿でしかないのだ。

 人間の利用している「言葉」というものは、その自然の姿を忠実に再現することは、ほぼ不可能だと僕は考える。

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カルマの消し方

   Cherinoha

 最近、「人はカルマを消すために生まれてきた」という、一風変わったお話を聞いた。

 「カルマ」とは一体なにかといえば、自分自身が生まれてくる前に自分で決めてきたスケジュールのようなもののことをいうのだそうだ。

 でも、そのカルマを消すには、ひとつだけコツがあるのだという。

 今は2012年の式年遷宮に向けて、日本の八百万の神が動き出している時代。そして、その日本神界(?)と相反するタルムードを発祥とする悪魔崇拝邪教(FRBとかCFR)の連中は、天照が動き出す前に、世界をひとつにまとめてしまおうとして動いている。(これは飽くまでも現状の僕の理解)

 そんな時代に生きている僕らは一体なにかといえば、父や母、祖父や祖母、その上の上のもっと上の何百人、何千人という祖先たちの代表として、今を生きているらしい。つまり、今の時代は、これまでの時代とは違って、ある種特別(?)な時期であり、そこを生きている人たちは、それぞれみんななにかしらの役目や役割をもって生まれてきているという考え方なんだそうだ。


 
 祖先の人たちというのは、肉体を持ない物質的な存在。そして、その存在は、古神道でいうところの八百万の神につながっている。

 八百万の神というのは、日本列島を取り巻く自然界のこと。

 で、自然界には「善と悪」はないから、八百万の神でもある祖先の人たちは、代表選手である僕らに、「お前とっととカルマ消しとけよ! まだあと6つも7つも残ってるぞ!」とお怒りになっている場合が多いと聞く。

 なぜ今この時代に、「カルマ」なるものを消さなければいけないかは、輪廻やらなにやらの、ちょいと難しい話を書かなければいけないから避けるけど、とにかく僕らはそれぞれ自分で決めてきた「カルマ」というシナリオを消去するために生きている。

 (ちょっと話が怪しいと思う方もいらっしゃるだろうけど、これは決して「アセンション」とか「フォトンベルト」なんかのお話ではなく、飽くまでもひとつの考え方の指標としての参考程度にとどめて欲しい)

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 カルマを消すためには、すべての出来事や結果に対して、感謝することだけでいいんだそうだ。

 身の回りに起こることにはすべて意味があるから、例えそれが自分にとって一時マイナスとなるようなことであっても、すべての事象や現象は、自分の後ろに大勢いる祖先の人たちが、「早く気がつけよ!」 という想いから起こされることなので、その人たちに「気づかせてくれるような出来事を起こしてくれてサンキュー」と思えればそれだけでいいらしい。

 例えばお金を盗まれたり、肉親を殺されたり、車にぶつけられたりして、それに心から「サンキュー」と思える人っているかな? 思えれば消えるのが「カルマ」。思えなければ消えないのも「カルマ」。カルマが消えないと、今後いろいろな意味で大変らしい。

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 (今日は久しぶりに家でゆっくりとくつろぎながら書いているんだけど、お酒が入ってて、自分でも一体なに書いているのかよく分からなくなっている。でも、とりあえず続ける。)

 教習所で「ハインリッヒの法則」とうのを教わった方もなかにはいらっしゃると思うけど、カルマ発生の法則は、これとほぼ同一だと僕は考えている。

 ハインリッヒの法則に関してはコチラを読んでいただくとして、とにかく僕らが常日ごろ出会う出来事は、すべて祖先の人たちが「自分で組んできたシナリオであるカルマ」を消すために、必死に与えてくれているものだという捉え方ができるらしい。

 「楽しいな」と思うことも「むかつくな」と思うことも、実は偶然ではなくすべて必然で起きているとしたら、こんなに面白いことはない。例えどんなこが起ころうとも、「じいちゃんばあちゃんありがとー!」という感じで能天気に受け入れていくことで、ひとつふたつとカルマ(というかノルマ?w)が消えていくらしい。

 でも、ひとつだけ注意しなければいけないのは、ハインリッヒの法則と同じで、祖先の人たちが、はじめは小さくて簡単なことで気がつかせようとしているのにも関わらず、「くっそー、なんでオレがこんな目にあわなきゃいけねーんだよ」とか思っちゃったりしていると、祖先の人たちは少しずつ、「こいつはこんな程度じゃ気がつかないから、もう少し大げさな出来事を準備しよう」ということになって、事態は少しずつ深刻になっていくということ。

 そして、やがて取り返しのつかない大きな出来事に巻き込まれてしまうそうだ。

 でも、最初に書いたとおり、昇天した祖先の人たちは自然と一体化してしまった存在で、善とか悪の分別をつけることはできないから、今を生きている自分自身が、毎日楽しく笑顔でいれば、「あぁあの子はああいう顔をしたがる子みたいだから、ああいう顔ができることをどんどん用意しよう」となるし、いつも、疲れた、むかつくと言いながら、、不安や悩みなんかを抱えて苦しそうな顔をしていると「あの子はああいう顔をしたい子みたいだから、どんどんああいう顔をさせないと」ということで、辛くて苦しいことを用意されてしまう。

 祖先は、決して僕らを苦しめようとしているわけではなくて、「とにかく早くカルマを消して欲しい」一身で、必死に訴えかけているだけ。2012年を間近に控えた特殊な時代を生きる代表選手である僕らに、気がつかせようと必死。

 そこには善意も悪意もないらしい。

 結局のところなにが言いたいかといえば、辛いことや苦しいことがあっても、それらはすべて必ず意味がって起こっていることだから、歓迎的に受けいれて、いつもニコニコ笑って楽しそうに生きていれば、ハインリッヒの法則のような「300:29:1」の「1」の部分に出会わずに、素敵な一生を送れるんじゃないかなぁということ。

 どれだけ楽しいことも、どれだけ辛いことも、みーんな日常の自分の受け取り方や心の持ち方が、相乗効果で呼び寄せていることを、肝に銘じておかなきゃいけないなと思う。

 むっちゃくちゃに辛いことでも、笑顔で「ありがとう」と言えるようになったとき、カルマは消える。

 すべてのカルマが消えたとき、人は本当の意味での自然に近づくのではないかと思う今日この頃。

 原因は、いつでも必ず自分の中にある。

 敵は外にはいない。

 そのことを忘れないようにしたい。

 そして僕は、腐るのではなく、発酵する生き方をしていきたい。

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日本の寛容力と、イスラエルの排他性

  Mugimugi

 「そもそも日本人が民族論を語ること自体がおかしいと思う。日本という国は、いろいろな民族が調和しながら共存する国だからこそ、八百万の神がいるわけで、アシュケナージの人たちみたいに、ユダヤ人とゴイムというような分別をしちゃいかんと思う。若い人には、そこに気が付いて欲しいねぇ」

 またまたお久しぶりです、じぃくです。

 季節はもう梅雨。

 田んぼの草取りも終え、苗の定植も終わり、麦刈りも終わって、ようやくひと段落つきそうな今日この頃。みなさんいかがお過ごしでしょうか?(どっかでみたような言い回しだなw)

 僕はといえば、自然農法栽培1年生として、幸運なことに、本当に多くの方と出会い、学び、生かされていることを日々感じられる幸せな毎日が続いている。

 ちなみに冒頭の言葉は、北海道でもう何十年も自然農法栽培に取り組んでおられる大先輩 ランボーさんのお言葉。自然農法の原理原則や方法論はもちろん、ユダヤ権力やヒットラー・ナチスのこと、大本や出口王仁三郎のことなど、夜遅くまで語り合ってきた。

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 最近、僕の身の回りだけかもしれないけど、世の中が動き出してる脈動を感じる。

 事実、僕は5月で人生を一度終えて、再スタートを切ることにもなった。この6月からがスタートの季節だということも、なんとなーく分かってきた。

 リチャード・コシミズさんのことも、独立党のことも、自然農法栽培のことも、すべてがすべて、確実に、綺麗に、美しくつながりはじめてる。

 メールも増えた。理解者も増えつつある。自然農法栽培を始める農家の方も増えてきた。僕と一緒に自然農法に取り組みたいという猛者も増えてきた。自然栽培の米や野菜を食べようとしてくれる方も確実に増え続けている。

 すべてのことが気持ち悪いくらいに動きはじめた5月、6月。みなさんの周りはどうでしょうか?

 久しぶりのエントリで、ここのところ経験・体験している不思議な出来事があまりに多すぎて、全部が全部書ききれないくらいで、非常にもどかしく、悔しいんだけれども、もう、なんだか最近、怖いこととか、恐れることとか、不安なこととか、むかつくこととか、ほとんど無くなった。ゼロになったといってもいいくらいに。

 でもそれは、敵はどこにもいなくて、いるとすれば、自然の節理を、自分の勝手な判断で真っ二つに割って、善と悪に分別していた自分自身だということに気が付いてからのこと。

 前にも書いたけど、敵なんてどこにもいなかった。

 自然の世界に、恐怖や不安、悩みなんてなにもなかった。

 これに気が付いてしまったとき、僕は、ほんの少しだけ変わることが出来たような気がする。

 ユダヤ権力は、実は敵じゃなかった。

 絶対許せないし、受け入れられるような対象ではないけれど、実は敵じゃなかった。

 敵は、自分自身だった。

 原因は、いつでも自分の心のなかにだけ、あった。

 それに気がつけるか否か。

 これからは、そこがすべてを決める時代だ。

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言葉の解釈は無意味

 肥料も農薬も一切使わずとも、立派に育つダイコンたち。もう、ここ何十年もこういう野菜をつくる本物の農家がいる。   

    Daikon 

 「そういう酷い?ことを言う側じゃなくて、言われる側でよかったじゃない。私はそう思うよ。だって、感謝できるんだもの。」

 @

 言葉は時に、考えていた通りには届かず、人を傷つけることがある。

 反面、ささいなひと言で、大きく救われることもある。

 誰がどんな言葉で、なにをどう解釈しようと、真実や事実は、その姿を変えることは、絶対にない。

 忘れかけていたそれを、思い出させてくれた言葉だ。

 僕は、なんて恵まれているんだろう。

 僕は、なんて幸せなんだろう。

 すべてに感謝する姿勢だけが、大きなものを引き寄せる唯一の方法。

 日々、勉強だ。

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火水

  Photo

 コシミズさんが「月」のことに触れられている。

 http://richardkoshimizu.at.webry.info/200906/article_7.html

 ということで、お久しぶりです、じぃくです。

 先日独立党の勉強会に参加して以後、身の回りに大きな渦が巻き起こっていて、農繁期ということもあり、しっかりとブログエントリをあげるパワーが残っていません(汗

 ここのところ、入ってくる情報量があまりに多すぎて、そのほとんどを消化しきれずに倉庫にしまいっぱなしの僕。

 出さなければ入ってこないのが自然の摂理だから、入ってくることは歓迎的なんだけれど、ここまで量が多いとさすがに消化しきれない。

 出さなければ、入らない。

 出せば、入ってくる。

 自然ってよくできてるなぁと最近つくづく思います。

 人間は自然の一部で、コシミズさんがおっしゃっているように、人のバイオリズムの大部分は「月」のリズムで動かされている。

 月というのは、いうなれば「水」のこと。

 人間の体は、ほとんど水で形づくられているから、どうしても月の影響を受けざるを得ない。

 自然界のエネルギを、便宜的に言葉で解釈するとしたらそれは、火と水。そして、土。基本的にはこの3つの要素で構成されているのが自然界。

 火水と書いて「神」と読むんだそうだ。かみ、ね。

 人間はもちろん土だ。

 火と水に関しては、書きたいこと、書かなければいけないこと(?)が山ほどあるんだけど、多分当分は書けないと思う。でも、その二つの原則が分かってくると、不思議と見えてくることが多くなった。

 僕は、どうやら「変わった」らしい。

 1年前にお会いした方からは、「なんだか別人になったようだ」と言われる。

 理由は大体分かってる。

 自然に則すことは、すなわち、原点に還り立つこと。

 あ~、なんだかまた、天然酒の飲みすぎで頭がぼ~っとしてきた。生きた菌を食べたり飲んだりすると、体にエネルギが充填されるんだな、これが。

 ではでは、みなさんまた。

 当分こんな状態がつづく僕ですが、今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

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