解釈 三度目
「小さな犯罪でも動機のわからないものは沢山あります。大きな戦争でも、それは同じことです。テロだって、突き詰めていけば、動機なんてわからない。ただ、正義を装った言葉として解釈されているだけです」
「恨み辛みがあった、というものが多いと思うが・・・・」
「そう捉えられているだけです。どうしてやったんだ、ときかれれば、むしゃくしゃしてやったとか、頭に来ていたとか、なんとなくその場で思いついたことを話す。それが動機というものになった。まったくの幻想ですよ」
---------------(中略)----------------------------------------------------------------
「社会を恨んでいる、日本という国家を恨んでいる、人間のすべてを恨んでいる、幸せな状態を恨んでいる、自分以外のものすべてを恨んでいる・・・・・。なんだって言えます。言葉にすれば、どんなものでも理由にできる。そうすれば、どんなに不可思議なものではあっても、社会はとりあえずは納得してくれる。少なくとも、動機という空欄を埋めて、ファイルを片付けることができるというわけです」
「うん、わからないでもないけどね、それはかなり、極論ではないかな?」
「では犯罪が起こって、その犯人が捕まったとき、どうして動機を尋ねるのでしょうか?動機が正しければ、その犯罪が許されますか?」
「少なくとも、まず正当な理由があるものならば、裁判で罪が軽くなる可能性はあるんじゃないかな。どうしようもなくて犯行に及んだ、ということであれば、それなりに酌量されることになる」
「酌量することで、社会は何を得られますか?」
「うん、そうだね・・・、人に対する優しさかな」
「しかし、たとえば、殺された被害者の家族は、その分だけ、憎しみが増すでしょう」
「そういうことはある。たしかに、それはある。たとえば、犯人が未成年だったとか、心神喪失状態だったとか、そういった場合にえてして起こりえる問題だ」
「動機を明らかにすることで、あるいは、動機を分析することで、社会はその犯罪を未然に防ぐことができるでしょうか?」
「それも、ある程度の効果は期待できる、あるいは、可能じゃないかな。不平等があるならば、それを正して、そういった不満が起こらないような社会を作れば、犯罪を減らすことができる」
「そういった犯罪ならば、既に減っています。今はただ、大衆は犯人の動機を知って、同情したり、あるいは怒りを新たにしたり、呆れたり、そんな反応の感情を抱きたい、ただそれだけのことです。そうじゃないと、どう反応すれば良いのかがわからない。反応ができないものは収まりが悪い、というだけなのです。結局は、収納の問題で、レッテルを貼ろうとしているだけです」
「うーん、まぁそういった面はあるかもしれない。これだけニュースがショーになってしまうと、その場かぎりであっても、とりあえずの落としどころを用意する必要があるってことだね。実際には、裁判があって、ずっと長い期間かけて取調べや検査、診断が必要だ。でも、とにかくまずは言葉による一応の結論を欲しがる、というわけだ」
「そのとおりです。テロや戦争においても、それはまったく同じです。人は、言葉で解釈し、その言葉で怒りを覚える。こうして怒りを煽り、人を動かして、戦いを始める。あるいは、自分さえも、その言葉に酔ってしまう」
「そういうふうに、君は考えているんだ。冷めているね」
「冷めている、というのも、解釈ですよ。それで納得したい、というのであれば、けっこうです」
講談社ノベルス 森博嗣:著 「εに誓って」より抜粋
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この文章を自分のブログに転載するのは今日で3度目。
人というのは、どこまでいっても「言葉」や「解釈」に、なにか大きな力があるとでも言わんばかりに、それらを妄信しているように思える。
もちろん「言霊」というエネルギは存在するし、それは僕も最近の私生活で「言霊」というものの力の大きさは体感している。ただ、人は、自分の価値観から生まれる「言葉」や「解釈」が、自然の現象というか、事実や真相、真理、真実を表現・体現できているかのように、誤認しているのではないか? と疑問に思うことも多いのだ。
例えば僕が、なにかを「黒」と表現・解釈したところで、事実事象が「黒」になるわけではない。
自然の世界や自然の現象には、白も黒もなく、あるのは、ただ一つ、ありのままの姿でしかないのだ。
人間の利用している「言葉」というものは、その自然の姿を忠実に再現することは、ほぼ不可能だと僕は考える。







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