タイトルの通り。
最近、有り難い縁もあって、本当にたくさんの自然農法家の方と直接お会いし、さまざまなアドバイスをいただくことができている。感謝である。
色々な畑や土壌を見させていただくうちに、ひとくちに自然農法といっても、人や土地、環境や風土によって、実にさまざまな手法や方法論があることを教わった。(ここでいくら偉そうなことを書いたりしても、所詮はただのド素人だからね。)
ただ最終的には、「肥毒の除去無くして、真なる自然農法の完成は有り得ない」ということが、すべての園地においての共通事項だということを改めて認識させられたことも事実だ。
無肥料無農薬の自然栽培・自然農法に取り組む農家は少しずつではあっても、確実に増え続けている。
しかしもちろん、自然農法に取り組むすべての農家が「肥毒層」というものの存在を認識しているわけではないし、知っていたとしても、その肥毒層除去(土づくり)に取り組んでいるかといえば、意外とそうでもない。
むしろ多くの方は、「肥毒ねぇ・・・そうはいってもうちの畑じゃ土づくりなんかしなくても実際に作物ちゃんと出来てるわけだし・・・」という意見をお持ちだ。
確かにそうだ。作物は、無肥料無農薬でもしっかりと育つ。
ただし、その畑が過去、どんな類の肥料をどれくらい撒かれた土地なのか、どういった経歴をもった土なのかによっては、10年後、一気に作物の収量がゼロになる可能性もある。そういう畑がたくさんあることを、僕は以前教わった。
それだけ肥毒というものは怖ろしいのだ。
つまり、自然農法・自然栽培実践の根本は、無肥料無農薬で野菜を栽培することではなく、肥料や農薬によって汚染されてしまった土をいかにしてきれいにしていくかということ。
例え無肥料無農薬で野菜を栽培することができているのだとしても、土壌に肥毒が残っているうちは、その残留肥料のもつチッソ成分によって野菜が生長しているだけだという可能性は否めない。
無肥料無農薬の野菜でも、残肥や不健康な状態の土で作った野菜は、腐ってしまう場合がある。
でも、なにかに頼らず、太陽と水、そして健康な土の力で作られた野菜は、枯れてゆく。
その違いが、野菜や土の本質を如実に表す違い。
事実、多くの農家は、無肥料無農薬である程度の収量を確保しながらも、いつまでも解決しない病害虫の発生に悩まされている。収量の低下などにも頭を抱えている方も少なくないはずだ。
そして、えてしてそういう畑で出来上がった作物は、安全性はさておき、単純な品質に問題を抱えている場合もあるという。無肥料無農薬で野菜や米が出来ればいいのではない。将来的に、日本国中の国民の食糧をまかなう農法として拡散するのであれば、やはり、誰でも受け入れてもらえるような安全性と品質を確保しなければいけないはず。それにはやはり、土の浄化という、根気と時間の必要な作業を実践しなければいけない。
それなのに、過去人々は、「米ぬかくらいはいいだろう」「○○資材ならいいだろう」「○○菌を使うくらいなら自然農法だろう」という、人間本意で軽率な誤認識によって、自然農法という農法そのものを追い詰めてしまった感がある。
「まぁこれくらいならいいだろう」という人間の勝手な判断によって、細かく枝分かれしてしまった自然農法が、もしかしたら、この、未来を担う本質的な農法を常識的な分野として拡散することの弊害になっているのかもしれないと、僕は思ったりする。
岡田茂吉氏の説いた「肥毒」という言葉の本質を読み解き、土づくりを実践し、無肥料無農薬はもちろんのこと、一切の外部資材を利用せずに、非常に品質の高い野菜をつくる農家は、確実に存在する。
事実はいつでもシンプルなもの。でも、シンプルだからこそ、自然農法・自然栽培は非常に奥が深い。そして、そこから学べる興味深い哲学(?)がある。
自然を読み解くには、いかに自分というものの存在を押し殺せるか。やはり最終的には、自分との戦いなのだ。
「あれが悪い」「これが悪い」と何かに原因を求め、「だからこれを使う」というのではなく、原因を内に求める姿勢がなければ、自然に近づくことはできないと思う。
そして、自然に近づくことができなければ、イコールそれは、神との距離がいつまでも縮まらないということ。
神との距離が縮まらないということは、これからの水の時代、多くの苦難を抱えるということ。
時間はあまり無い。
自然を捉える力、もっともっと身につけていきたいと思う。
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