感じたこと・考えたこと

止め処なく溢れる出る、僕には制御できない不思議な力

   


  きっと誰もが

  なにか足りないものを

  無理に期待しすぎて

  人を傷つけている

 @ @ @

 ユダヤ国際金融資本という名の資本主義社会がつくりだした世の中は、ずいぶんとまぁ強欲な社会だったように思う。

 足りない、足りない。

 もっと、もっと。

 そうつぶやいて、つくり、生み出し、求め、捨て、今日まで到達した。

 でも、それも今年でもう終わり。時代の潮目が変わった。

 そんな今日この頃、僕が気づき、再認識し、強く感じていることは、欲を強欲にしてはいけないなぁということ。

 自分自身の姿になにかを求めることはとても大切なことだと思う。でも、自分以外のなにかに、なにかを強く求めることは、欲を強欲に変え、色々なものを傷つけ、汚し、失っていくのではないか。そんな風に思う。

 幸か不幸か偶然か、この世に生を受けた人間という、ある種特異で必然的な存在性がやはり忘れてはいけないことは、必ずあるのだと思う。

 それを忘れてもやってこれたのが、これまでの社会。

 ユダヤ権力は誰が生んだのか。

 彼らを突き動かすのは、一体なんなのか。

 これまでの歴史的な過程的構造や、今現在の社会を鑑みる限り、彼らの存在性の完璧さは、やはり人間ではないと思う。

 もちろん彼らそのものは人間だ。

 でも、それを動かしているのは、絶対に人間じゃない。

 僕にもようやく、そのことの意味が、ほんの少しだけ理解できるようになった。

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いづのめの姿勢

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 右翼左翼というけれど、そんなもの、なんの役にも立たない。

 なぜならば、真理・真実というものは、いつでも必ず、ものごとの中枢、そのわずか一点、伊豆能売にあるからだ。

 右や左、上や下に偏っていては、本当のことは決して見えない。

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ことばのちから


 最近、言葉の力ってすごいと思うことが多い。いわゆる、言霊ってやつだね。

 たとえ嘘でも「元気だ」と口にすると、どれだけ憑かれていても疲労を感じなくなる。

 逆に、独り言で「疲れた憑かれた」と口にしている人の近くにいると、自分も不思議と調子が悪くなってしまうような気がしないでもない。

 言葉って、結局はそれを口にする本人の価値観から生まれてくる解釈の道具でしかないから、僕はあまり言葉というものの持つ力や能力を、あまりアテにはしてない。

 ただ、言葉の「音」が持つ、目には見えない不思議な(?)力は、多いに活用していくべきだとも思ってる。

 歌なんかもそうだよね。

 殺すとか、死ぬとか、マイナスイメージの歌詞の歌って、そうそうない。

 大抵は、歌といえば、使い古されたフレーズだとしても、それなりにプラスイメージの言葉を多用しているものが多いと思う。

 だから、不思議と僕は歌を聞きたくなるし、歌いたくなるし、これもきっと言霊のもつ要素のひとつなんじゃないかなぁと。

 マイナスイメージの言葉が羅列された歌なんて、多くの人は聞きたくないだろうしね。

 結局、いつも書くことだけど、決めるのは自分なんだぁなと思う。

 

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神の存在

 

 今日も自宅に帰りメールをチェックすると、独立党員のOさんからメールを頂戴していた。

 以下は、メールに記載されていた小林正観氏の話。

 Oさん、いつも本当にありがとうございます。メール返信できておらずに申し訳ありません。

 僕のつくった(?)野菜、届いてますか?w

 

(以下引用)

キリストの生涯
 
 ある年の12月24日の深夜に『キリストの生涯』という、長時間のテレビ番組が始まりました。
 私は、どの宗教にも属していませんし、どこからも教えを受けたことはありません。しかし、お釈迦さま、キリスト、マホメット、ソクラテス、プラトン、モーツァルトのような人の生き方や生涯には、とても興味があります。だから、そのようなテレビ番組があると時間の許す限り見るようにしています。
 ヨハネは洗礼を与える人なので、『バブテスマのヨハネ』とも呼ばれていました。このヨハネはキリストが現れる10年も前から、「そろそろ、私たちの目の前に救世主が現れる」と言い続けていました。
 あるとき、川の中にジャブジャブ入ってきて、「私も洗礼を受けたい」と言った青年を見た瞬間にヨハネは、「あなたこそが、私たちが求めていた救世主である。私は、あなたの弟子になる」と言います。
 ヨハネは、洗礼を授けた上でへりくだって、キリストの弟子になりました。ヨハネを信仰して尊敬していた人たちは、ヨハネがそう言うのだったら、この人が救世主なのだろうということで、一挙にキリストの弟子が増えました。
 
 お釈迦さまの十大弟子の一人に『智慧第一』と称される舎利子がいます。この舎利子は250人くらいと一緒に人生を語る導師のもとで勉強していました。
 お釈迦さまの弟子であるアッサジ比丘が辻説法をしているときに、舎利子が通りかかって、お釈迦さまはすごいことを言っていると感じます。それで道場に帰って、荷物をまとめ始めました。
 それで、「舎利子さん、あなたいったい何をやっているのですか」と一緒に合宿していた人に言われます。舎利子は、「私は、今までこの師匠のもとで何年も修行をしてきましたが、わからないことがたくさんありました。でも、今、そこで聞いてきたお釈迦さまの話は、私にとってものすごく衝撃的で、わからないことが全部解き明かされました。それで、これから私はお釈迦さまに弟子入りをするのです」と言いました。
 
 そのときに、その250人は、「あなたがそう言うのだったら、私たちもついていく」と言って、お釈迦さまの弟子になりました。
 
 大迦葉、中迦葉、小迦葉という迦葉三兄弟も、1000人ほどと一緒に道場で人生について勉強していました。そして、その迦葉三兄弟がお釈迦さまの話を聞いて、「この人はすごい人なので、私たちはお釈迦さまの弟子入りをする」と言ったところ、この1000人もついてきました。
 結局、お釈迦さまは自分で弟子を集めていないのに、いきなり1250人の弟子持ちになってしまったのです。
 このようにすごい人というのは、自分が一人ひとりをピックアップして人を集めていません。ものすごい能力の高い人が、そのグループを連れてドーンとくるという歴史的な現象があります。
 もし、そのような現象がどこかにあったら、その人は500年、1000年後にものすごい宗教家になっているかもしれません。
 
 キリストは、ヨハネから洗礼を受けてから、わずか5年ほどしか活動していません。そして34歳で十字架にかけられました。
 キリストは、32歳くらいのときに弟子と岩山を歩きながら、このようなことを言います。
「許すものは許される。許さぬものは許されない。裁くものは裁かれる。裁かぬものは裁かれない。これを自分の心の中に充分に埋め込みなさい」
 
 この言葉を聞いた瞬間、私はベッドから転げ落ちてしまいました。
 
 私は、48歳のときに『うたしごよみ』という日めくりカレンダーを作りましたが、これには宇宙の大法則を31個書かせていただいています。それは、48年間誰からか教わったものではなく、自分の人生でやっと到達した結論でした。
 その結果の中の一つとして、
 
 『大法則』
宇宙の大法則。
投げかけたものが返ってくる。
投げかけなければ返らない。
愛すれば愛される。
愛されなければ愛されない。
嫌えば嫌われる。嫌わなければ嫌われない。
 
 という言葉を書きました。
 私が48年かかって、やっと得られたその言葉を、キリストは何と32歳で言っているのです。私はクリスチャンではないし、日曜学校にも行ったことはありません。キリストが、このようなことを言っていることを、初めてそのときに知りました。
 
 そして、ものすごいショックを受けました。キリストはまだ青年の域を脱していない32歳です。この人生の経験量でこの宇宙の鉄則に至るには若すぎると思いました。普通の人であったならば、知能指数が200であろうが300であろうが、この鉄則に至るわけがありません。
 唯物論として言いますが、この言葉を聞いた瞬間にキリストは神の子だったのだ、と思いました。キリストは、この宇宙の方程式を神から教わっていたのでしょう。
 
 私自身と照らし合わせて、「わずか16年の違いじゃないですか」と言われる方がいるかも知れません。
 これは、単に16年の違いではありません。例えば、今、40歳だとすると、40歳までの情報量・経験量・知識量と41歳のときの1年が同じ重さ。その1年が膨大なる内容と密度と充実感を持っている。そして、41歳までの情報量・経験量・知識量と同じ重さのものが、42歳のときの1年にくるのです。
 ですから、もし高校生、大学生の人がいたら、自殺することは絶対に勧めません。もったいなくて、もったいなくて仕方ありません。長生きした方がいい。今までの人生の総量に相当する情報量と楽しさ、面白さが、これからの1年間に待っています。
 つまり、16年の差というのは単に16年の差ではありません。32歳の人と48歳の人は情報量が2の16乗分違う。
 私は、やっと45歳くらいからそういうことが分かりだして、検証してきたから、48歳でそういう結論になり確信になったのです。
 これをクリスチャンの人に言ったら、「信じるか信じないかでしょうね」と言われました。
 私は、その日、事実として、キリストは、自分の経験から何か教えを編み出したのではない。明らかに宇宙の構造や仕組みを作った人からその構造を聞いていたのだろう、という結論になりました。
 その一言で、神さまという名の存在がいて、神さまから情報をたくさんいただいていたキリストという名の存在を、私は確信せざるを得ませんでした。
 もう1回、キリストの言葉を言います。
 「許すものは許される。許さぬものは許されない。裁くものは裁かれる。裁かぬものは裁かれない」
 キリストは、「何が正しくて、何が正しくない」と言っていません。「私は正しい。私の感覚でこの人を裁けばいい」という考え方は違うようです。

(以上引用)



 自然農法に従事して1年が過ぎた。

 毎日畑や田んぼに出向いて土や作物と触れ合っていると、どうしても「神」というものの存在を感じずにはいられない瞬間に出くわす。

 もちろん僕は特定の宗教団体に所属しているわけではない。僕のいう「神」というのは、くどいようだけれども「自然の摂理」のことであって、偶像崇拝ではない。真実は人にではなく、自分の身の回りにある。

 それにしても、人という生き物は脆弱で、誰もがそれなりに自分が正しいと思っていて、だからこそ他人のやることがとにかく気に食わないのだろうか。

 もちろん僕だってそうだ。あまり自分の立場や存在、自分のやっていることに自信満々というわけではないけれど、やはり、どうしても自我が主になることはある。

 でも、そんなとき僕は思う。

 結局、僕の行動や言葉なんて、僕という狭くて小さな価値観から生まれるだけのものであって、それは、他人にとっての「当たり前」ではない、と。

 許すとか、受け入れるって本当に難しいと思う。

 でも、自然の摂理は、いつだってなにも変わらない。

 だから、日々自然農法を実践することで、感覚や精神、日常生活を、少しでも自然の流れに任せられるように修行中。

 ゆっくりでもいいから、少しずつ進化すればいいと思う。
 
 土も、人も、進化に掛かる時間はあまり変わらない。

 すぐには上手くいかないんだなぁと、日々勉強。




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果たして自分は正しいのか

Isso  

 今日は、いつもメールで貴重なお話をお教えくださる独立党員のOさんからいただいた話を転載したいと思う。話は、小林正観氏のものである。
 
 Oさん、いつも本当にありがとうございます。

 最近、Oさんからいただくメールの内容は、ほぼすべて、完全に僕の農業や私生活にリンクしています。不思議なこともあるものですね。

@ 

【ほかの人の事情】

 ある人が地下鉄に乗っていたら、父親と3歳と5歳くらいの子供が乗ってきました。そしたら、この2人の子供が電車の中をグルグル走り回って、ものすごくうるさかったそうです。そして、ほかに乗っている10人くらいも非難の目でこの3人を見ていました。
 その正面に座っている人は、自分の周りに味方がたくさんついている、と思ったようです。そして、ツカツカと立ち上がって目の前の父親に対してこのように言いに行きました。

「あなたは、この子供2人がどれほど騒がしくて、周りに迷惑をかけていることをわかっているのか」
 そしたらこの父親が頭を上げて、「そうですか。子供たちが騒ぎまくっていましたか。暴れまわっていましたか。それはすみませんでした」と言いました。

 この人はさらに激高して言いました。

「こんなに走り回っているのに気づかないわけがないだろう」
 
そしたら、その父親は、「本当に気が付きませんでした。今、私は病院で妻を亡くしてきたところです。子供たちは、その事件の重大さがわからなくて、多分飛び回っていたのだと思います。自分はこれから急いで家に帰って、通夜や告別式の支度をしなければいけません。そして、これからこの子供たちをどうするかと考えていたら、子供たちのことが何も分かりませんでした。子供たちが騒いでいたとしたら大変申し訳なかったです」と言ったそうです。
 それを言いに行ったその男性は、心の底から悔やみました。なぜ事情が分からないのにそんなことを言いに行ったのだろう、と。

 外の人間には、この人がどれほど悲しい思いをしていたのかわかりません。子供たちは騒ぎまわっている。しかし、その人はそんなことを考えられる状況ではありませんでした。
 でも、私たちは、そういう事情を知らないで生きているのです。私のちっぽけな狭い了見の正義感で、この人をなじりに行った。そして、そういう特別な事情があることを聞いて、本当につらい思いをしたのです。
 私たちは、自分の狭い価値観をありとあらゆる人に押し付けようとしない方がいいみたいです。
 
 世の中にはいろいろな事情を抱えていて、その事情の結果として行動している人がたくさんいる。私たちには、その事情がわからないのです。


【食い逃げ】
 
 私は法学部に行ったということもあって、学生のときは法律の勉強をしていました。
 
 食い逃げという犯罪があります。実は、食い逃げには罪一等を減ぜられる情状酌量の余地が内在されているのです。
 それは、ご飯粒を1粒も残さなかった、ということ。そのときに罪一等を減ぜられて情状酌量になる。
 なぜかと言うと、その人は、本当にお腹がすいていたからです。半分しか食べないで半分残して食い逃げをした人は、罪が重い。被害金額は、全部食べた方が大きく、半分しか食べていない方が少ないと思うでしょう。
 
 でも、法律にも血が通っていて、カツ丼や天丼を食べたときに、ご飯粒が1粒も残っていないという状態だったら、この人は罪一等を減ぜられて、多くの場合執行猶予が付くのです。
 そのお腹がすいていたという事情がわかったときに、私たちは少し違う気持ちになると思います。この人は悪い人だと指をさせないのではないでしょうか。
 私たちには、そういうことの一つひとつの事情がわかりません。それだったら、いちいち、この人がどうこうと糾弾しない方がいいようです。
 
 
 
【ある社長】
 
 ある社長が、朝9時が始業なのに9時半に遅れて来た女子従業員を「なぜ遅れたのか」とものすごい勢いで怒りました。
 ところが、この女性は、お母さんが明け方の4時、5時くらいに脳溢血を起こしたため、救急車を呼び入院の手続きをしてきました。帰ってきてほとんど寝ていない状態で、子供の朝食を作り、それを食べさせてクタクタに疲れて駆けつけたのが9時半だったそうです。そういう事情を知らないで社長は怒鳴りまくりました。
 この人は黙って聞いていたそうですが、非常につらい思いをして、その3日か4日後に辞表を出したそうです。
 社長の側からすると、怒鳴ったことが当たり前かも知れません。「9時が始業なのに、なぜ9時半に来るんだ」と言ってかなり怒ったのですが、どうして一人ひとりに事情があるということに目がいかないのでしょう。
 人が何かをするにあたっては、全部事情があるのです。私の価値観・正義感というのは、もしかしたらすごく狭いものかもしれません。その狭い価値観で人を裁くのはやめることにしませんか。
 世の中にはそういう人もきっといるよね、何か事情があるのだろう、と思うことができたら、人間はものすごく心が広くなることができます。
 

@@

 人にはそれぞれ事情や価値観などがあって、多くの場合、みんなそれに従って動いている。

 だからこそ、例え現象面や現実論で自分が明らかに正しいとしても、相手の事情や状況を酌んだ上で、物事を判断していくことは大切だと思う。

 そもそもこの世の中に、本質的な善悪などはない。だからこそ、まずは自己を否定して、他人を受け入れる寛容さと穏やかさ、そして、暖かさを持つべきなのかなぁと。

 自然界の現象は、全て意味や理由があって起こりうることで、それには完璧な秩序や方程式が埋め込まれている。

 だからこそ、受け入れることや許容することの大切さを、自然を通じて学んでいきたいと、僕は思う。

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そもそも自然ってなんだろう

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 自然って一体なんだろう。

 誰かが「これが自然だ」といえば、それが自然になるのかな。

 僕は違うと思う。

 毎回毎回書いていることだけれど、人間の言葉は、ただの表現の道具に過ぎない。

 人が、「これが自然だ」と言ったところで、それが即自然になるかといえば、決してそうではない。

 僕は、自然は、人間の幼稚で脆弱な言葉や解釈で表現できるほど、狭くもなければ小さくもないと思う。

 自然とは、宇宙の摂理であり、神の所業であり、人間ができるのは、せいぜいその一部を「自然」という言葉と解釈を使って、形而上学的に表現して、自己満足に浸って悦に入ることくらい。

 もちろん、人間の言葉が、絶対に自然を捉えられないというわけじゃない。

 ただ、言葉は飽くまでも言葉。解釈は飽くまでも解釈。

 人の言葉や解釈に「自然」を見出してしまったら、それは、例え本質はそうでなくても、人間信仰と一緒。

 自然や宇宙、神や能力というのは、人それぞれの内に秘められたるものであって、言葉や解釈で定義して縦割りできるものじゃないと、僕は思う。

 「これが自然。あれは不自然」

 自然じゃないものなんて、そもそも存在しない。

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餓鬼

 小学生のころ、「バカっていったほうがバカなんだよー、イーだ!」なんていう、幼くも不毛なやり取りをしたことがある人もいると思うけど、最近僕はこのことの意味がなんとなく分かるような気がする。

 昔、音楽で随分とお世話になった人には、「自分よりも若い人をガキなんて呼んでるうちは、まだじぃくがガキなんだぞ」と言われたこともある。

 僕はほんの数年ほど前までは、今の姿形(?)からは想像ができないほどに荒くれていて、とにかく口も目つきも態度も人間性も悪かった(と自分では思ってる)。自分より年下の人間を、「このクソガキが!」なんて罵ったことが何度もある。(ホントすんません。懺悔します)

 でも、ここ最近、ふと、その先輩の言葉を思い出したときに、「そういや最近、年下の人に、「ガキ」というイメージを浮かべるようなことがなくなったなぁ」と気がついた。多分、人間の本質は年齢が決めることではないということが、ようやく少しは腹に落ち始めているからだろう。相手が年下だろうと年上だろうと、目上だろうと、他人だろうと、僕は常々フラットに接していけるよう心がけてはいる。

 とまぁ、こんなことどうだっていい僕の個人的な価値観なんだけど、つい最近、人から「ガキ」と呼ばれることがあった。

 でも、その人の言い分を冷静に、論理的に、倫理的に分析していくと、現状の僕にとって、その人が非常に幼く見えてしまった。なんでかはよく分からない。

 僕が普段よく使う表現では、「即自的」というか・・・

 久しぶりに、人から「ガキ」と言われたことで、「あ~、あの先輩が言っていたことの意味はこういうことだったのかぁ!」とヒザをポンっと叩くことができた。

 おかげさまだ。

 人には人なりの人生観や価値観、自然観というものがあって、それが仮に自分のもっているそれと相容れないものだったとき、それを否定するのか受け入れるのかが、即自と対自の分かれ目。

 いつも書いてるけど、結局人間が使う言葉なんて、オブジェクトを一時的に表現するための道具でしかないのだから、その言葉をどれだけ使っても、残るものはなにもないということが分かったものが、対自だと僕は考えている。

 別に、自分で考えられるようになったわけじゃない。これは、森博嗣さんから教わったこと。

 僕は、唯物論に終始しない本来の弁証法的な思考で、物事を判断していきたい。

 ただそれだけのこと。

 

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言葉の解釈は無意味

 肥料も農薬も一切使わずとも、立派に育つダイコンたち。もう、ここ何十年もこういう野菜をつくる本物の農家がいる。   

    Daikon 

 「そういう酷い?ことを言う側じゃなくて、言われる側でよかったじゃない。私はそう思うよ。だって、感謝できるんだもの。」

 @

 言葉は時に、考えていた通りには届かず、人を傷つけることがある。

 反面、ささいなひと言で、大きく救われることもある。

 誰がどんな言葉で、なにをどう解釈しようと、真実や事実は、その姿を変えることは、絶対にない。

 忘れかけていたそれを、思い出させてくれた言葉だ。

 僕は、なんて恵まれているんだろう。

 僕は、なんて幸せなんだろう。

 すべてに感謝する姿勢だけが、大きなものを引き寄せる唯一の方法。

 日々、勉強だ。

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   Namonakisora

 僕は、自分の信じた道、正しいと思った道を行く。

 まだ名も無い小さな空の途中だけれど、僕は、僕を生きる。

 僕が行くのは、右でも左でも、下でもない、上空に真っ直ぐ伸びる一本の光の筋。

 なんのためかは分からない。

 でも、もはやそんなことはどうだっていい。

 ここではないどこかを目指して、生きる。

 ただそれだけ。

 それが「生きる」ことの本当の姿だと思ったから、僕は生きる。

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どちらも同じ

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 昨日、水たまりでおぼれかけていたハエを助けた。

 今日、部屋に入ってきた虫を、叩いて殺した。

 どちらも自然に則していないなと、思った。

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吹く、風

Kaze

 風が吹く。 

 風が呼ぶ。

 風が、見える。

 風は、火を起こし、時代を変える力。

 今、背中から吹く風。

 君も、どこかで僕と同じ風を、感じてくれているだろうか。

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あるのは意思のみ

   L

 畑仕事を終えて、夜。

 まっくら闇のなか、ただ一人愛車のヴェスパに乗って、田んぼのあぜ道をひたすらに走る。

 ヘルメットのシールド越しに見上げる空は、星くずでいっぱいだ。

 都会にいたころには、絶対に見ることができなかった、満天の星空。

 そう、まさに、絵に描いたような、満天の星空。

 ふとバイクを止めて、シールドをあげ、空を見上げる。

 周りにはなにもない。あるのは、田んぼと、そこで鳴くカエルの声くらいなもの。

 うっすらと目を閉じると、まるで空に吸い込まれるかのような感覚。透明な空気。

 僕が、宇宙と「神」を感じる瞬間のひとつだ。

 ふと、考えた。いつもの、くだらない妄想。

 僕も、星も、空気も、田んぼも、カエルも、皆、もともとは、量子という粒子の塊だ、って。

 みんな、一緒。

 自然も、宇宙も、草も、虫も、動物も、人も、空気も、みんな、一緒。

 一体。

 たまたま、今、僕は僕であるだけで、カエルはカエルであるだけの話。材質は同じ。違うのは、状態とタイミング。ただそれだけ。

 そう考えたとき、一瞬目の前が砂嵐に見えた。

 テレビの中の、あの砂嵐。そんな感覚。

 大気と自分が、ものすごくマクロな視点でみていくと、まったく同じツブツブで出来ているということが、僕の中の、くだらないイメージを膨らませる。

 「じぃく君、最後は、なにも無い。どこまでいっても無なんだよ。それが宇宙だ。だから、なにも考えなくたっていい。感じるだけでいいんだ」

 ある人の言葉が浮んだ。

 確かにそうだ。すべては、最終的に、どこまでいっても「無」なんだ。

 ただ、それと同時に、今ここで、この瞬間に、空気を吸い、生きている自分の意識や意思という精神や心が、すべての無という属性に反する「有」であることにも、気が付く。

 ありとあらゆる物質は、「無」だ。

 でも、物質を介在して、呼吸し、考え、感じ、笑い、泣き、生きている僕という存在の精神や魂は、物質と比較した場合は、「有」だと思った。

 正しいか、間違っているのかは分からない。でも、その瞬間は、なぜだか「有」だと思えた。

@@

 いつの時代も、形ある物質は「無」に還る。

 ただ、その「無」に起因する「有」は、決して消えることもない。

 最終的に、すべては「無」だ。それは分かってる。

 でも、無の中に、「無と有」が共存しているというこの感覚だけは、決して忘れたくない。

 そう思った。

 空気を吸う。

 吐く。

 明日が、始まる。

 季節は、もう春。

 

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お金の純度

(やわらかな光の中で咲き誇る大根の花 )

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 人を殺して、人から盗んだ100万円。

 ふつうに働いて、ふつうに稼いだ10万円。

 どちらに価値があるだろうなんて、どうでもいいことを、ふと考えた。僕は、いつでも、どうでもいいことを考えるのが得意だ。

 もちろん、お金や紙幣なんかに価値がないのは分かっているから、たとえそれが10万だろうと100万だろうと、対して変わりゃしない。

 でも、最初に挙げた二つは、絶対に違うとも思う。

 今の世の中、一般的には、誰もが食うために働いている。

 「自分は、食うためには働かない。働くために食うんだ」、というのは、僕が大好きな、とある自然農法家の方の言葉で、そういう人も少なからず世の中にはいらっしゃる。

 ただ、残念ながら今の世の中にある大抵のものは、お金を手に入れるためにあって、ほとんどの人は、そういったもののために生きているように、僕にはみえる。

 今、そこらじゅうで売られているものは、お金を払ってそれを買った人がどうなるかは、あまり考えてつくられていない。

 ものは、それをつくった側、それを売る側が、いかに利益や収益をあげ、少しでも他人よりも大きな結果を得られるかどうかを重視してつくられ、販売されている。

(「健康食品」と呼ばれるものが、その代表的な例だ。それを買って口にする側の健康は一切考えられていない。もし本当に買う側の健康を考えるのならば、健康食品などをつくることはできない。)

 今の世の中、ほとんどのものは、買う側のためにあるんじゃない。売る側、作る側が得る、お金のためにある。

 もちろん、お金というのは、社会の発展に必要があったからこそ生まれた、自然現象そのもの。だから、否定するつもりはないし、否定することもできない。

 ただ、それをどういう経緯で手に入れたかで、「生きたお金」かどうかは、分かれるような気がしないでもない。

 僕はきっと、人を殺したり、人を騙したり、人から盗んだお金があっても、うまい棒一本すら、買えないと思う。

 それは、100万円だろうと、1億円だろうと、金額は関係ない。使えないものは、きっと、使えない。(わかんない、ふつうに使えるかもしれないけどw)

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 でも、自分が手間と時間と愛情をかけて、肥料も農薬も使わずに作った野菜を売って、手に入れることができたお金ならば、それがたとえ10円だろうと、100円だろうと、構わないと、僕なんかは思う。なぜならば、いまどきこんなに純度の高い、ありがたみのある小銭は珍しいと思うからだ。

 大切なのは、金額の大小じゃない。

 自分が納得いく形で得られたものならば、きっと、人を騙して奪った大金よりも純度は高い。

 もちろん、つくった野菜が「買った人のため」だなんておこがましいことは、みじんも思っちゃいない。食べものが安心安全なんて、そもそも当たり前のことなんだもの。

 でも、これまでも、これからも、食べる人の生命や健康を担っていくべき本来の農業「自然農法」は、お金のためだけにあってはいけないんだと、僕は考えてる。

 農業は、人間社会の下地であって、国民のいのちを支える大切なもの。現代社会における、アシュケナージユダヤハザールの生み出した金融システムに、その身をあずけてはいけない。

 だから僕は、たとえ少なくても、純度の高いお金があれば、それでいいと思う。

 そもそも、人間にとって本当に必要なものなんて、限られているんだ。

 生まれたときからあるものが、「あって当たり前のもの」と思い込まされているだけだ。それが現代社会。洗脳。

 本当は必要ないのに、必要だという設定になっているだけのものなんて、僕にはいらない。

 憎悪や嫌悪で水増しされ、人工的に増幅された紙幣も、いらない。

 なぜならば、今の僕に、社会一般で言われているような、いわゆる贅沢なんか必要ないし、自分が納得いく形で手に入れたお金ならば、それが多かろうが少なかろうが、それは、自分にとって最大限の手に入れられるものであろうはずだからだ。

 そもそも、贅沢と無駄は、同義。それが、僕が森博嗣先生から教わったこと。

 それに人は、純度さえあれば、なんだって、できる。

 世の中無駄が多すぎるから、人間が、思ったように生きることができなくなったんじゃないかな。

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大は小を兼ねる

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 受け入れることと、受け入れれないこと。

 どちらも同じことだけれど、やはり、受け入れることのほうが、どちらかといえば難しいと、僕は思う。

 ただ、「大は小を兼ねる」といわれるように、全てを受け入れることは、自分のキャパシティのようなものを計るのには、ちょうどいい方法であるとも思う。

 受け入れられないなにかがあるとしたら、それはきっと、自分のうつわがその事象よりも小さいということ。事象そのものに「原因」はない。ただ、自分の小ささに原因があるだけ。僕は、そう捉えている。

 毎度まいどの繰り返しになるけれど、そもそも自然界の現象には、「いい、わるい」や、「善、悪」、「大、小」などの分別はない。

 すべての要素を包括したものが、ひとつのものとしてただそこにあるのだけなのが、自然界の仕組み。

 「受け入れる」と口でいうのは簡単だけど、実際にその姿勢を日常に取り込んでいくことは、本当に難しい。

 ただ、受け入れれば、受け入れられることにつながる。

 自然の摂理や力を取り入れられるようになる。

 でも、僕は、そのために「受け入れる」のではなくて、そのほうが楽だからというのが本当のところ。

 自分の捉え方次第で、すべてのものが変わるのならば、「いいな」と思えるものが多いほうがいいじゃん。

 「いやだな」は、なるべく少ないほうがいい。

 いやむしろ、そんなもの、ないほうがいい。

 「まぁ、これもいいかな」。そう思って、許せる心が、欲しい。

 いいなと思えるものに囲まれていたほうが、きっと楽しいはず。

 でもそれは、なにかや誰かが用意してくれるのではなく、自分の捉え方という心がつくり出す。

 それだけ。シンプルだからこそ、実行するのは、難しい。

 

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  Izunome_2

 光。

 摂理。

 「生かされている」という、感覚。

 忘れない。

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中心であること

 真理は、常に、中心にある。

 右も左も、前も後ろもない。

 善も、悪も、闇も、光も、ない。

 本質とは、中心のこと。

 中心は、真理。

 真ん中。

 なにがあっても、ブレないこと。それこそが、中心であり、軸であり、自分であり、認め、受け入れるということ。

 僕は、「自分中心」でいいと思う。なぜなら、人は誰でも自分が中心であるし、それ以外にあるのは、他人。

 自分と他人。分別する。 

 ただしそれは、いわゆる「自己チュー」とは違う。

 生きていれば、いろいろとある。生きていなくても、もちろんいろいろとある。

 「自分は、いろいろなものに囲まれて生きて、活かされているんだ」という感覚。ビジョン。

 自分を支えてくれるさまざまな要素は「点」であり、その点の集合が円であり、円は、自分を中心に、周りを取りかこむ。やさしく、あたたかく、包み込んでくれる。

 だから、自分が中心。対自。

 「自己チュー」は、きっとその逆。

 自分が円で、点をつなげずバラバラのまま、自分という円の中に囲っている。つまり、即自。腐るほど、在る。

 自分を中心に考えることができれば、対立物と自己を、分断、分別することができる。対自。

 自己中心「的」に考えると、それは分別することをせず、受け入れないこと。即自。

 分別することと、しないことは、同じ。

 受け入れることと、受け入れないことも、同じ。

 ただ、不思議なのは、「受け入れること」は、「分別すること」ではじめて生まれる、寛容性。

 分別することで、実はその対象が、分別しきれない、「まったく同じもの」だということが分かるようになる。同じなら、受け入れればいい。

 でも、分別することができなければ、同じであり、異なるままの状態。

 二重性が生み出す、うつくしい矛盾。

 それが分かったとき、本当の意味での心地よさを知った。

 自然には、善悪がない。分別もなければ、判断もない。

 ただ、あるのは、「中心」であるということ。

 つまり、真理であり、揺るがないということ。

 中心でいることの、むずかしさ。楽しさ。

 それは、「自然体」でいるということ。

 生きていれば、いろいろとある。

 引きずり、引きずられ、それでも、すこしずつ、ほんのすこしずつ、中心に向かう姿は、美しいと思った。

 真理に近づく。

 本質を知る。

 真実に出会う。

 

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聖地巡礼

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 休暇を利用して、三重県の多度大社、伊勢神宮を巡礼。

 でも、巡礼といっても、自ら向かったわけじゃなくて、ただ単に呼ばれたから行ってきただけ。

 どうして呼ばれたかは、ひ み つ。

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まずは、光ありき

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 まずはじめに、光だけがあった。

 空間にひしめく無数の粒子が、各々のリズムとタイミングで放つ、頼りない光。

 そう、まるで蛍のような、今にも消えてしまいそうな、あの光だ。

 そこに、いつしか、物質・物体が生まれた。

 その物は、光を遮り、影を作った。

 やがて物は、空間を占める割合を増やし、影は、大きく、深く、暗く、冷たくなっていった。

 いつしか光は、闇にくるまれ、見えなくなった。

 そして、散々に、分断された。

 あったはずのものが失われ、あるはずもないものだけが、空間を占有する、影の時代。

 しかし、光は、失われてはいなかった。

 影の中で、その姿の一切を変えずに、同じリズム、同じタイミングで、点滅・呼吸を続けていた。

 分断されていたものが、集約する姿。

 影の中で、無数の粒子が、中心に向かって、集約していく。

 影という球形の中で、影と同じ形式をとった光の粒子は、影と全く同じバランスのまま、膨らんだ。

 もう、表面とほとんど同じほどの位置まで、膨らんだ、粒子。

 あとは、はがすだけ。

 黒をはがし、白が戻る。

 残留していた、小さな、小さな光の粒が、同じ姿を求めて。

 還る場所を求めて、はがしていく姿。運動力。

 繋がっている。

 全て、繋がっている。

 薄く、硬く、深い、表皮。

 はがれる。

 はがす。

 もどる。

 還る。

 光。

 小さな亀裂に、大きな、風。

 吹く、風。

 散々に、粒子。

 繋がる

 終わる。

 始まる。

 はじける。

 繋がる。

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心の誠

   

黄金の金玉を知らないか?①

黄金の金玉を知らないか?②

 僕お気に入りのブログ「黄金の金玉(こんぎょく)を知らないか?」。玉蔵さんのブログだ。

 中には「タイトルが・・・」なんていう人もいるようだけど、「こんぎょく」よ、「こんぎょく」。なにも恥ずかしいことはないw

 キンタマなんて誰がいったw

 それにしても、どうして僕がこの玉蔵さんのブログが最近お気に入りかというと、気持ちがいいくらいに僕が書いていることとリンクしているから。その一言に尽きる。

 上の動画も玉蔵さんがブログ上で紹介していたものなんだけど、普段玉蔵さんが発信している内容、僕がここでつらつらと書きなぐっていることと、本質的にリンクしている。

 確かに見ているときに、複数の人間が互い違いに話したりとか、音声が加工されていて気持ち悪いとか、「面白い内容だけどなんか変なんだよなぁ。映像のもつ洗脳力満載だ!」と思った。サブリミナルが織り交ぜられたいわくつきの動画だというのは知らなかったけど、そんなこたぁどうでもいい。

>>さて、しかしながら、サブリミナル効果などという古臭いケチな話はさておき、このシークレットというのが言っていることは単純明快な話です。

 と、玉蔵さんもおっしゃっているように、本質を捉えるということはそういうこと。映像の加工がどうとかそういうことじゃあなくて、自分の目の前に与えられた情報の中から、自分の人生観にフィットするエッセンスだけを綺麗に抽出し切れるかどうかがキモなのだ。僕はこの動画、単純に面白いと思う。

 僕が書こうと思ったことは、もう全部玉蔵さんが書いちゃってるから、あんまり書くことはないんだけど、 一つだけ僕がこの映像の中で違うと思ったのは、「思考は全て現実になる」という部分。

 自然の摂理は、人間の一方的な思考を、そんなに柔軟に受け入れてくれるほど甘いもんじゃない。

 僕が肥料も農薬も一切使わない自然栽培から学んだのは、「自分の身の回りに起こる事象には、必ず意味と必要性込められていて、それらには全て、自分が次のステップへ進むためのヒントが込められている」ということ。

 思ったこと、思考が全て現実の事象になるのは、自然法則ではないと思う。(玉蔵さんも、文章的に暗にそのことをおっしゃっている・・というか触れていない)

 全てにはそれぞれ役割があるから、僕がどれだけ金持ちになりたいとか、高級車が欲しいとか唱えても、それは絶対に叶わない。なぜなら、それは僕の役割ではないからだ。

 もちろん、それが自分の役割だと思っていて、叶わないと思うから叶わないという図式になるんだろうけど、多分違う。

 自分に必要なものは、全て初めから与えられている。だから、いくら願っても、それ以上のものは決して手に入らないというのが、僕の考え。

 ただし、今を生きている多くの人は、その、初めから与えられているものにすら気がついていない。なぜならそれは、長い歴史の中で隠されてきたからだ。人々は、本来手にするべきものすら手に入れられず、お金や物質という幻想だけを追い求めることに、人生のほとんどの時間を費やし、死んでいく。

 本当は、自然の摂理から与えられるものだけで十分なはずなのに、人為的に作られた、金とか名誉とか、そういう物質的なものばかりに囚われて、一生を終えていく庶民。ブタ。家畜。ゴイム。(まぁそれが、一部の特権階級の連中の願いなのだから、致し方ないのか?なんて。)

 でも、願って願って、与えられたのならば、それは元々始めから自分に与えられていたもの。与えられていないものは、どれだけ願おうと、手には入らない。人生、そこまでうまくできてはいない(笑)

 求めて与えられるものは、絶対的に自分に必要があるものだけ。「願えばなんでも」なんてのはウソ。映画としてのただの演出だ。そこんところだけは、映像のトリックが生み出す洗脳力・説得力に騙されないように(笑)

@@@@

 もちろん僕は、今後数十年で、量子力学によって、今はまだ解明されていないようなとんでもない現象が、少しずつ解明されていくと考える立場だから、量子論的にそのことを説明するこの映像は、非常に大きなヒントになった。単純明快で面白いと思う。

 僕がいつも言いたいことは、「善悪などを二分して分別せずに、全ての意味を受け入れながら感謝の念を忘れさえしなければ、必ず自然の生み出す渦のような流れに乗ることができて、結果的に幸せ(?)なストーリになるだけ。悪いことを考えるな」ということ。

 それは、つまり、与えられたものを全て、自分の手元に手繰り寄せるということ。

 全ての本質的な意味を探り、そのことにありがたみを感じることが出来る人には、必ず次のステップが舞い降りる。でも、それは結果的には、自分で手繰り寄せたのだとしても、実ははじめから与えられていたものなんだ。

 だから、小さくてもいいから、心の中に、一すじの光を携えてさえいれば、それでいいんだと思う。 

 だって、決めるのは、自然の摂理なんだからさ。人間の狭くて稚拙な判断力であれこれ考えたって、きっとなんにもなりゃしない。

でも、人は、自分が思ったように、どうとでもなれるからこそ、生きることは、本当に奥が深くて、楽しいこと。

 そして、原因は、いつでも、自分の内にある。

 いいものをいいと思えばよくなるし、悪いものをいいとすれば、それもまたよいものになる。

 ただそれだけの、単純な話。単純なことほど複雑なものはないのだから、これもまた、いとおかし。

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嗚呼今日も本質は遠ざかる

 どうして人は、こうまで本質に眼が向けられないものか。

 自然の摂理の生み出す事象を、感じれば感じるほど、真実とか、本質とかいうものは、本当に拍子抜けしてしまうほどに簡素で、単純なものだということが見えてくる。

 なにも加える必要がない。

 なにも考える必要がない。

 ただ、目の前にある与えられた現象を紐解けばいい。

 しかし、人は、どうしてかそれができない。

 難しくしたがる。

 考えたがる。

 利己的に捉える。

 自分、じぶん、ジブン、JIBUN。

 全ての中心が自己、自我にあるとでもいわんばかりに、本質や自然から目をそむけ、それが本質であると勘違いしてしまう。

 本当は簡単なのに、見えなくしているのが、最終的には自我。

 全体を見る。

 繋がりを考える。

 細部を見る。

 また、全体を見る。

 あそことそちらの中心点が「ここ」だと分かっていても、あそこやそちらが複数あるということには気がつかない。

 一部が全体だ。

 いいや、それは一部であって、全く全てではない。

 本質は、もっと身近なところにあるのに。

 本質は、もっと近くにあったはずなのに。

 いつのまにか人は、自らそこを遠ざかる選択を重ね、今日に到る。

 本当は、本質は足もとの土にあったはずなのに、いつしか人は、意識だけが土から離れ、どこか遠くに行き着いた気持ちになっている。離れれば離れるほど、進化、進歩、飛躍、躍進、進展したつもりになっている。

 でも、答えは元々足元にあった。

 それが、全てを与えてくれる「土」。大地。

 原点に還ることは、土に還ること。

 土に還ることは、本質を知ること。

 でも、人は、なかなかそれができないままでいる。

 まだまだ、土は、遠い。

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風向きは変わった

 自 幼 常 為 旅  いとけなきときより つねに たびをなし

 遥 春 駿 馬 驕 はるに あいて しゅんめ おごる

 前 程 宜 進 歩 ぜんてい よろしく ほをすすむべし

 得 箭 降 青 霄 やの せいしょうより くだるをえん

 小さな子供のころから常に旅を続けてきた。人生とはそのように変転きわまりないものだ。

 しかし春になれば馬が勇み立つように、人も時機が来れば大いに活躍できる。今がその時だ。

 これからの前途は何事もまっすぐ前を向いて進んでいくことがよい。

 そうすれば、天が降した幸いの矢があたるように、自然に物事がうまくいくようになり、幸福となるであろう。

 労力を惜しまず、活発に仕事をする人は幸せを得る。正直にしていれば天の恵を受けて成功し、不正直ならば逆に天罰がある。神仏の加護を祈り、すすんで事にあたるように。

 という意味があるらしい。

 正月、体調不良で寝込んでいたときに見た夢があった。その夢は、僕が中学2年生のころから、今日まで出会ってきた人たちの中でも、特に大きな存在であった人たちとの出会いのシーンや、会話のシーンを、全て総ざらいしたかのような長い夢で、「あ、だから今ここにいるんだ」と思い出して目が醒めた。

 その翌日、とある神社に初詣にいったんだけど、そのときに引いたおみくじが冒頭のもの。なんだか鳥肌が立った。昨年1年かけて僕が学んだことのおさらいというか、そのことを見越した上でのメッセージというか・・・

 僕は今でも無神論者ではあるし、なにか一つの事物事象や組織に傾倒することはないけれど、やはり去年に出会ったさまざまな出来事を振り返ってみると、「自然の摂理」の厳しさと懐の広さをつくづく感じる。

 神さまという表現はあまり好きではないけれど、日本人にとっての神というのは八百万の神。身の回りにある全て、すなわち自然界に対する畏敬の念こそが、神そのものなんだと思う。

 その念というのは、決して恐れおののくという意味ではなくて、そこにある自然と、それらの恵に生かされていることへの感謝の念だと僕は考えるそれが分かったからこそ、僕はあのタイミングで伊勢神宮に呼ばれ、あの儀式、現象に立ち会うことができたのだと思う。

 やはり、自然に順応した食生活、思考、行動、判断こそが、今、多くの日本人に求められているのではないかと、強く感じた。その姿勢こそが、風向きを変える大きな力になる、と。

 僕は、その感性を磨くために、今日も土と向き合っている。

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 上の映像は、玉増さんところで紹介されていたもの。何度か見ているうちに、不思議な気分にさせられたので、こちらでもリンクしてみた。

 世界には、さまざまな国があって、民族がいて、人がいて、多様性の中、バランスを調和しながら成り立っている。

 その多様性や調和を破壊し、全てを一つにまとめようとしているのが、アシュケナージユダヤハザールの連中。僕がこうしてのんきにキーボードをカチャカチャとタイピングしている今でも、ガザでは彼らイスラエルユダヤ軍による大量虐殺が行われている。

 でも、そんな彼らの、実に400年以上に渡る歴史もそろそろ終わり。風向きは既に変わった。地球や人類史は、長い長い歴史という積み重ねの旅を終え、ようやく現時点まで辿り着いた。

 もちろん、僕らの世代で全てが解決するとは思えない。今の時代は、まだまだほんの始まりの時代。本当に世の中が変わってくるのは、恐らく僕らの孫の世代か、もう少し先のことかもしれない。

 だからこそ、伝えることの大切さ。残すことの大切さ。

 それを、ここにきてようやく、少しだけ感じることができるようになった。

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私、○○だから・・・・・

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 「私、○○だから、□□なの」

 「僕は○○だから、□□になっちゃうんだよねぇ」

 「○○が□□なのは、△△が★★だからなんだ」

 多くの場合、最後につくのは「だから仕方が無い」の一言。

 原因を外に求める姿勢は楽だ。

 原因や理由を自分以外の何かに求めれば、最終的にはそれを意図的に排除することが可能で、一見、問題は解決したかのようにみえる。

 しかし、原因が自分や内にあるとすれば、それは途端に排除できない「我」にぶち当たる。 

 だから多くの人は、自分に不都合な事実は、なにか自分以外のものに原因を求め、楽をしたがる。

 自分を殺すことは、時に大きな苦痛を伴う。でも、原因が自分以外のものにあるとしてしまえば、殺すのは簡単だ。痛みはない。

 「仕方が無い」の一言で、あっという間に苦しみは消えてなくなる。

 けれども、本当の原因が消えてなくなることはない。

 本質に目を向けられるか、否か。

 病気?ガン?

 病気が悪いのか。ガン細胞が原因なのか。そうじゃない。原因は自分。仮に病気などというものがこの世に存在するのであるとすれば、そうなってしまった根本原因は、自分。

 自分を見直さず、ただただ現象レベルを取り除くことは、排除の理論。アシュケナージユダヤハザールが得意としてきた、分別の手段。

 畑に虫がでた?病気がでた?

 原因は気候なのか。天候なのか。隣の畑なのか。

 そうじゃない。原因は、内にある。

 長年使い続けた肥料や農薬が土壌に溜り、それを浄化するために、虫や病気はやってくる。

 全て、必要があって起こること。

 人は、文明は、科学は、自然が生み出す「必然性」をことごとく排除する。

 薬、抗がん剤、農薬。

 原因は全て、外にある。だから、それらを殺すための道具がそれ。

 でも、その道具では、「なにか」を「こうだ」と決め付けている「自我」を殺すことはできない。

 僕は、友人の死を通じてガンという名の病気と向かい合い、原因を内に求める姿勢によって、無から有を生み出す農業に出会い、その二つの全く違った要素の奥底に流れる、全く同じリズムで刻まれる「脈」を感じることができた。排除の理論が根本的な原因を取り除くためには役立たないことに気がついた。

 だから今、僕はこの土の上にいる。

 答えは案外簡単だった。

 全てには必然性があって、それは自然の摂理。そして、身の回りに起こる現象を生み出しているのは、自分の心。

 黄色いものを、赤と捉えようが、青としようが、最終的に自然はモノクロの世界。

 無色透明、無味無臭のものに、わざわざ色をつけ、味をつけ、臭いをつけ、「まずいし臭い」と叫んでいた自分の姿を見つけた。

 その自分を殺したとき、なにかを区別して、解釈して、分別することの無意味さを知った。

 全ては皆繋がっていて、同じもの。

 そして、全ては全く別々のもの。

 二重性。

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テレビばっかり見てないでたまには・・・

 (ええぃ、動くでない、暮夢!)

     Img_3727

(以下、ぽちは見たから引用・転載)

 おいらがこのHPを作っていると、ご主人様はいつも怒るんだ。「はやく次の原稿書けよな」って。でもおいらは駄犬だから、パソコンを使うのも上手じゃなくて、なかなか次の章に進むことができない。「それじゃあ、いつまでたっても最終章になんかたどりつけやしないぞ」っとご主人はイヤミで笑う。しかたないから、おいら、最終章を先に書くことにするよ。

 なんでこんな章を書きたかったかというと、これこそが、ご主人様とおいらのいちばん伝えたいことだったんだ。これを読んで、みんなも、マスコミに対しての正しい認識をもって欲しいんだワン。

 まず、人間の世の中には、テレビとかラジオとか、新聞とか雑誌とか、いわゆるマスメディアっていうものがあるよね。これっていったいなんだと思う?

 「世の中の正しい姿を伝える道具かな?」ある若者はそういうんだ。
「みんなのための娯楽のひとつかしら?」別の女性は答えたんだ。

でもね、答えは全然違うんだワン。

では、「マスコミってなに?」という質問の正しい答えは、「広告・宣伝媒体」だということなんだワン。

 そう、業界ではメディアのことを「媒体(ばいたい)」って言っていて、テレビも「媒体」、ラジオも「媒体」、雑誌も「媒体」、新聞だって「媒体」ってわけ。そして、なんの「媒体」かというと、「広告・宣伝をのっけるための」媒体だということ。あっ、NHKだけは別ね。

 世の中にはたくさんの「売りたいモノ」がある。そして、それを売るためには「広告宣伝」が必要だというわけ。なら、その「広告宣伝をするための道具を作ってしまいましょう」ということで、そのためにテレビやラジオや雑誌が登場したというわけなのだワン。

 街角に看板が立っているよね。「ペットフードなら○○へ」とか、「歯が痛くなったら××歯科へ」みたいなやつ。また、たまに家にチラシが入るよね。「おいしいピザはドレミピザ!」なんてね。テレビやラジオや雑誌や新聞は、あくまでもあの一種にすぎないんだワン。街角の看板は、見る人もそんなに多くないし、チラシはまくのが大変だ。だから、もっと効率よく広告・宣伝をする方法はないか?って生まれたのが、テレビやラジオや雑誌なんだよ。(読むべし→
あるある大事典のニセ実験と洗脳カリスマDJにだまされるな

 まぁ、よく考えたらヘンな話だよねぇ。広告を見る道具を買うために、みんなは何万円も払っているんだから。そして夕食後に家族団らんしながら、広告を見ているんだから。おいらみたいな犬にとっちゃ、テレビなんかタダでも欲しくないんだけどね。

 ところが、この事実を多くの人間たちが忘れてしまっているのでござる。…というか、ご主人様さえも昔は気づいていなかったらしい。小さい頃からテレビやラジオや雑誌があって、それを見たり読んだりすることが娯楽だと思って育ってしまった現代の人間たち。すると、いつのまにかテレビや雑誌は「自分たちを楽しましてくれるステキなものだ」と思いこまされて、生活に深く浸透してしまっていたんだワン。今や人間たちにとって、テレビがない毎日なんて考えられないだろう? まぁ、一種の
洗脳だぁね。

 「洗脳なんて大げさな!」と笑う人は、一度ためしに、一日中テレビを見ないで過ごしてみるといいよ。きっと、なんか物足りなかったり、不安になってしまうはずだ。そして、なんとなく自分が世の中から取り残されたような気がしてしまうはず。そのうち寂しくなって、ついテレビのスイッチを入れてしまうはず。それこそ洗脳そのものだよ。

 そして、みんなはちょっとした娯楽の提供と引き替えに、大量の広告・宣伝を
無理矢理見せられているわけだワン。当然、そこで伝えられている内容なんて、偏っていてウソばっかりなのはあたりまえ。広告主に都合が悪い内容は出さないし、広告主が喜ぶ内容をでっちあげられている。さらに、おもしろくないモノをおもしろく見せ、ないものをあるように見せる。なんたって、作ってる人が、いいかげんなやつらばっかりなんだから。でも、そんな嘘つきのテレビ君たちに文句を言うのはおかしい。だって、みんな「タダで」情報をもらったり、楽しませてもらってるんだよ。それこそムシのいい話でござるよ。

 テレビなんて、一応それらしくニュース番組なんてやっちゃって、まるで「僕たちは真実を伝える道具です」のようなフリをしてるけど、もちろん本音は「この広告を見て下さい。モノを買って下さい」なんだから。 そうそう、よくテレビに向かって「CMが多すぎる!」とかいって文句を言う人がいるけど、あれは、間違ってるんだワン。だって、テレビは「CMを見せるための道具」なんだからさ。たくさんCMが出れば出るほど、その本来の姿なんだもの。

 そもそも、マスコミが真実を追究したり、人のためになるようなことをする必要や義務なんて、まったくないのだワン。彼らは公務員じゃないんだから、商売でやってるんだから、人のためにつくすイワレなんて、これっポチもないのである。個人の会社がお金儲けの手段として、テレビやラジオや雑誌やら新聞やらという道具を使っているだけなんだもの。そんなところに、真実を期待する方がおかしいんだワン。もし、それがいやなら、みんなでお金を出し合うなり、税金を投入するなりして、公的な機関をつくってやってもらわなきゃダメなのでござるよ(ほんとはその役割がNHKなんだろうけどね)。

 人間の世界では、よく先生や親が「新聞を読みなさい」なんて言うらしいけど、…それはもちろん大切なことでもあるけど…、同時にとっても危険なことなんだよ。だって、新聞ってのは「単なる誰かの商売道具」なんだから。そんなものを信じちゃっていいのかなぁ? おまけに新聞には「新聞にのるようなことしか書いてない」んだからね。ほんとは、新聞に載らないようなことにも、大切なことはたくさんあるんだよ。おまけに新聞がウソを書いていることだってあるんだ。でもみんなは「新聞は正しい」と思っていて、「新聞に載ってないようなことなら大したことじゃないんだろうな」なんて、安心しちゃってるワン。

 それでも昔はね、マスコミ人というのは気骨があって、新聞君なんかは「ペンは剣より強し」なんていっちゃって、圧力には屈せず真実を伝えることが使命だと思っている人も多かったんだ。ところが、世の中が平和になっちゃうと、そんなことは忘れて、お金儲けばっかり考えるやつらばっかりになっちゃった。いや、それより世の中のしくみが巧妙になったんだろうね。あからさまな情報操作なんてすぐにバレちゃうから、だます方も上手になったというべきなのかな? もちろん、マスコミの世界すべてがそうじゃない。がんばって真実を伝えている人もいるし、いい番組や雑誌や本もあるワン。でも、普通のきみたちには、どれが正しくて、どれが正しくないか、見分けがつかないでしょ?

 もし、「自分は物知りだ」と思っている人間君は、一度振り返ってみて欲しいワン。じつは、自分が得た知識って、ほとんどがテレビや本など、マスコミを通して知ったものばかりのはず(最近はインターネットも多いらしいね)。自分のもっている知識のうちの何パーセントが、自分が実際に見たり体験したりして得た知識だい? じつはそのほとんどは、実際に自分で見聞きしたモノじゃないでしょ? おいらは犬だから、実際に散歩に出て自分が見た風景や、匂いなんかが自分の知識になっているけれど、人間君はそうじゃないはず。それってとっても危険なことじゃないかなぁ? だって、嘘つきたちのいうことを信じちゃってるんだから。

 じつはね、おいら、ご主人と一緒に暮らしているせいで、ここに書いたことの100倍もの、マスコミや世の中の色々なウソや隠れた真実を知っているんだワン。やばすぎてここには書けないようなものも、たくさんあるでござるよ。でも……それらすべてを君たち人間クンに伝えることは、残念ながらできないんだワン。

 だから……、おいらの願いは、みんなももうちょっと賢くなって、世の中をじっくり観察してほしいんだワン。もっと自分の目で色々見て、自分自身で体験して、自分の力で確かめて欲しいんだワン。その上で、自分の意見をもって欲しいのでござるよ。誰かが言ってることをそのまま信じちゃうんじゃなくて、自分の目で見て欲しいのでござるよ。少なくともマスコミに登場している物事がすべてで、真実だとは思わないことだワン。彼らが言わないことやウソはたくさんあるんだ。そして、マスコミに登場する音楽も、服の流行も、世の中のブームも、すべてが「なにかを売るために巧妙に作られたモノ」だということを忘れないで欲しいんだワン。世の中のほとんどの人は、そんなマスコミに知らず知らずのうちに踊らされて人生を過ごしてるってことも……。

 それこそが、おいらが最後に言いたかったことなんだワン!
あっ、ご主人様が帰ってきたワンワン。じゃ、ちょっと散歩に行ってくるワンワンワン!!

(以上、引用・転載)

 (吠えようが、噛み付こうが、走りまわろうが、机に乗ろうが、つまみ食いしようが、僕は暮夢を叱らない。伊歩が生きてたころだったらきっと、メッタンメッタンに殴りつけてたんだろうけどね。

 いたずらしないかって?

 いや全然。

 「不自然な状況を作り出しておいてから、それに対処することができたから、この技術は効果があるんだ!と言い切る人間の滑稽さ」、と福岡正信翁がおっしゃっていたことを、犬を通じて教わる日々。

 元がきちんとしていれば、無駄なしつけをしなくても、犬は立派に育つことが分かった。暮夢の4年後が今から楽しみだ)

      Img_3721 

 僕がテレビを見なくなってからはや3年。

 「じぃく!テレビばっかり見てないで、たまには新聞くらい読みなさい!」

 昔母親によく言われたなぁ。今となっては、そんなお茶目な母親に「どっちも一緒だったじゃねーか(笑)」とツッコミを入れたくなる。

 まぁ僕という人間は他人の想像を絶するくらいにいい加減でどうしようもない人間だから、幼いころから今日の今日まで、自分のやりたいことだけをやってダラダラと生活してきた。

 新聞読めって言われたところで、読みたいと思わないのだから、新聞なんて一切読まなかった。どこか、あのインク臭や見づらい紙面構成に、子供ながら胡散臭さを感じ取っていたのかもしれない。

 テレビの胡散臭さと実態に気がつくまでには相当な時間がかかってしまったけど、今となってはそれもいい思い出。

 最近の僕は超ド級の山奥の田舎に住んでいるから、テレビどころか、大好きだった伊集院光さんの深夜のバカ力というラジオ番組を聴くこともままならない。もちろん雑誌を買うことも一切なくなったし、ここんところは忙しさも相まってか、インターネットでの情報収集すらしなくなった。

 読むのはコシミズさんのブログと自分のスレがある掲示板くらい。

 本も滅多に読まない。本は本で、他の手段では手に入らない貴重な情報が潜んでいる可能性が大きいのでたまには読むんだけど、否定の否定を繰り返すことに疲労するから、やはり読むことは少ない。近頃は「本なら・・・」ということで、そこに記載されている内容の全てに依存して影響されつくされる輩が多すぎる。弁証法のべの字も知らずに本など読むなと、思ったりなんかしちゃったりなんかすることがないこともない。

 こう書くと、「じぃくって偏ってるよな」とか言われてしまいそうだけど、一度「感じる」ことの面白さを知ってしまうと、なかなか「媒体」には心が向かないのが正直なところでもあるのだ。

 土を通じて自然に心を向けるようになると、なにか特定のメディアに触れずとも、自分に必要なもの(情報)は自ずと向こうから近寄ってくるようになるし、現時点で今自分になにが必要かは、簡単に見えるようになる。

 何かや誰かに頼らずとも、ある程度、自分の意思で答えを出して、結論を導き出せるようになる。

 そうすれば、必然的に、目には決して見えないものも、うっすらと見えるようになってくる。

 感じることできる、心強さ。

 分別することのバカバカしさや、我を内に抱え込むことの虚しさ。

 土は、それを僕に教えてくれた。

 僕はテレビをはじめとしたメディアはヘドが出るほど大嫌いだけれど、考え方によっては、クソうんこメディアがあったおかけで、今の僕があることも確か。

 やはり、全てには感謝すべきだなぁと改めて感じる。

 うんちが一切入っていない土と触れ合うことで、うんこのようなメディアのありがたさを知る。

 生きるって、楽しい。

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アダムとイブ

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(以下、嘘が多い Wikiより引用)

 旧約聖書『創世紀』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には命の木善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木はすべて食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこのときは食べてはいけないと命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。が女に近づき、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧め、二人は目が開けて自分達が裸であることに気づき、イチジクの葉で腰を覆ったという[2]

 この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠の苦痛が増し、また、地(アダマ)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す[3]。アダムが女をエバと名づけたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることをおそれ、彼らに衣を与えると、二人を園から追放する。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめく剣の炎をおいた[4]

(以上引用)

 前回エントリの補足っつーわけじゃないんだけど、おもしろいエピソードだったので引っ張ってみた。

 聖書とか、世の中の見聞に一切知識のない非常識な僕は、アダムとイブがこんなエピソードだったなんて知らなかった。

 「善悪の知識の実」だって。

 ありのままの姿で、自然や動物とわけ隔てなく生活していた二人の男女が、善悪を分別して、知識を得て、判断することを覚え、自己と自然を切り離し衣を身にまとった。

 そして、女性は妊娠の苦痛が増し(?)、土(アダム)が汚染され、額に汗しなければ食料を手にすることができなくなる。農業のこともそうだけど、現代貨幣奴隷制度のことだね、これ。

 宇野正美さんなんかは、聖書とアシュケナージユダヤハザールのことを強く結びつけて説明されることが多いけれど、僕はこの聖書というのはなんだか小難しくてじっくり読んだことはない。ただ、要所ようしょのエピソードを知っていくと、現代社会と符号する点も多くて、興味深いことは確か。

 つまり、分別したり、無駄な知識や知恵を身に付けて、科学の名のもとにあーだこーだと人間の範疇の中で判断するってことは、ロクなことにならないよってことなのかな。分からないけど。

 自然が一番?

 いやいやそうじゃない。

 在るのが、ただ、宇宙と自然界のうねりなだけ。

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居ても、居なくても

  Img_9737

 割り切ることはとても難しい。線引きすることも、とても難しい。

 なにが正しくて、なにが悪いのか。

 そんな、ありもしないものの狭間で揺れているのが、僕という認識。

 「自分」という認識は、在るようで実は無くて、無いようで実は在る。存在などしない。ただそこに、「認識」という狭い空間が停滞しているだけ。

 全てのものには必ず二面性や多面性があって、丁度その狭間でゆらゆらと揺れ動くのが、人間として生きること。僕はそう思っている。

 僕(自分)などという微細な認識は、あってもなくても実はほとんど同じようなもので、言ってしまえば、もしかしたら無いほうがいいくらいのものかもしれない。

 そもそも、僕が僕であるという根拠など、どこにもありはしないし、僕という認識があるということだって、定かではない。

 だから、僕にとって大切なのは、内面に向けた自己の認識よりも、外部から入り込んでくる、どこか違う認識から生まれたまったく別のもの。自分以外の何か。

 僕にとって、僕などというものは、案外どうだっていい。

 それよりも大切なのは、自分という認識の輪郭を決定付ける、外部認識。即自から対自へ。

 全ては自分の認識次第で様変わりする、うつろいやすいもの。けれどもその自己の認識は、外部から形成される。二重性。矛盾。交換。往復。作用。反復。

 内も外もない。善も悪もない。生も死もない。

 ただ、認識を保持するには、ときに狭義な便宜上の解釈も必要とされる。拡大。収縮。拡大。人間の瞳孔のようなもの。

 瞳孔が開くとき、終わる、命。

 恐らく、ただの命では体験できない、広がりを持った視野の先に、求めるものが、ある。

 

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生まれて初めて神を感じた日

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 伊勢神宮に行ってきた。

 行ってきた・・・・?いや、ちょっと違うかな。呼ばれたと言った方が適切かもしれない。それだけ、今回の神宮参拝に到るまでの過程には不思議なものを感じた。そして、僕をその地まで連れて行ってくださった方も、とても不思議な能力を持った人だった。

 僕は、生まれて初めて訪れた伊勢神宮で、神の姿を見た。

 こんなことをいうと、恐らくほとんどの人は「じぃくはとうとう頭がおかしくなった!(゚Д゚)」とおっしゃられると思うし、実際僕もそう思う。自分の身近な人間が「俺神様みたよ!」なんて言い出したら、さすがの僕も笑うだろうし、信じられないと思う。でも、この体験はきっとあの場に居た人間にしか分からないもの。

 「どんな顔してたの?w」とか、「どんな服着てたの?w」とか、そういうことじゃない。

 あれは、エネルギ体。

 自然と人間が融合する瞬間だったんだと思う。

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人間じゃない

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 「感情って、大きく分けると二つ。「楽しい」とか「うれしい」とか「喜ぶ」とか、人間にとって「いい」ものと、「悲しい」とか「怖い」とか「苦しい」とかの所謂「悪い」ものの二つ。人間の感情はすごく複雑化していて、沢山の感情があるようにも見えるけど、実はその二つしかないんだ。犬とかの動物を見ているとよく分かるけど、「餌をもらえるからうれしい」とか、「飼い主に叱られたから悲しい、怖い」とか、動物は、その二つしかない感情の表現がはっきりしてる。

 ただね、この二つの感情って、実はもともと一つのものだった。ところが、いつしか人は、本当は一つだったものを、判断して、考えることで、二つに分けてしまった。それが「恐怖」の誕生。この、判断して、分別して生まれた「恐怖」っていう感情が、悪魔・・・・いうなればユダヤ権力最大の発明なんだ。

 今、ほとんどの人って、そういう「恐怖」みたいな、本当は存在しない、生み出し作りだされたものに執着して、騙されて、怯えて暮らしてる。全ては決まっているし、そもそも「恐怖」なんて一切無いものなのに・・・・無いものに怯えてるんだ。それを一度分かってしまえば怖いものなんてなにもないし、怯えることもないし、なにかすることなんて、ひとつもないのにね。

 ユダヤ権力(悪魔)を動かしているもの?

 人間じゃないよ。

 先日、こんなエントリをしたんだけど、その翌日。僕のこのブログをもう随分と前から読んでくださっている方(厳密にはこの書き方は適切ではありませんが、スペースの特性上こう表現させていただきましたことをお許しください)と、偶然(?)お会いして、お話する機会を頂いた。

 1年前の僕を振り返ってみると、その頃のには決して見えなかったものが、本当に少しずつではあるけれど、見えるようになってきている今日この頃。もちろん「見える」といっても、肌や感覚で捉えている領域に過ぎないけれど、今まで100だと思っていたものが、1、いや、0.000001くらいのものであることに、少しずつ気がつき始めている自分がいる。

 なぜ僕は今ここに居て、呼吸をし、こうして生きているのか。

 その答えの全ては、もしかしたら分かる日は来ないかもしれない。それでも、そのことの意味を垣間見ることができただけで、十分過ぎるほどに幸せなのかもしれない。

 

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神社神主の孫さんへ

神社神主の孫様

 返信大変遅くなりまして、申し訳ありませんでした。

 以下、大変微小なものではありますが、ご確認ください。 

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こころ100%

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 「騙された僕がいるからには、当然騙した人がいて、罪を犯させるきっかけを僕が与えたともいえる。そんな風に考えられる様な僕がいればどうだったのかと思い始めたら、答えが溢れ出してきた。」

「天国と地獄へのエレベーター」 槇原敬之

 「今まで一度も自分に嘘をついたことはないか?違うのに正しいとやり過ごしたことはなかったか?問いかけたとき僕は気づく。喜びも、悲しみも、自分が全て選び心に招き入れていることに。」

「太陽」 槇原敬之

 「強い夢は、叶う」

 さだまさし

 ということで、もしかしたら過去に何度かご紹介してきたかとは思うけど、僕の大好きな歌手二人の「好きな言葉」。

 創価学会員とか、麻薬で逮捕とか、ゲイとかネコとか、生長の家とか、この際そんな雑多なことはあまり関係ない。

 いいと思えるものは、いいと思える。たったそれだけのこと。

思考が行動になり、行動が神経になり、神経が精神になり、精神が心になる。そして、心がまた、次の思考へと繋がっていく。そして、そんな心躍る素敵な無限ループの原動力になるのは正しい「食べ物」と正しい「食べ方」。ハードは「宇宙」と、そこに起因する「魂」。

  最近の僕は変わったらしい。全く違う人間になったんじゃないかというくらいに変わったんだそうな。もちろんいい(?)意味で。大勢の方にそう言われ、褒め(?)られる。

 はて。一体なにが変わったんだろうか。

 ブログを読んでくださる読者の方々からは、「文体が変わった」「書く内容が変わった」「トゲがなくなった」「進化している」と、色々な評価を頂戴している。

 現実の僕を直接知っている方からも、「声が明るくなった」「穏やかになった」「笑うようになった」「温厚になった」「表情が柔らかくなった」「臭くなくなった」「エロくなくなった」(うるせーよwwwwwwwwwwwww) と、色々な評価をいただいている。

 (というか、今まで僕って、一体どんな人間に見られてたのよ?w)

 つまり、どうやら僕は変わったらしい。しかも、「良くなった」という評価がほとんどである。ただ、普段人から罵られることに慣れすぎた僕としては、ここ最近の状況が、なんともいえない不気味な雰囲気に晒されたような気持ちにならなくもないこともないような気がするような気がしないでもなくも無かったりしたりすることもあるわけだ。

 でも、一体どうしてそうなったのかを軽く振り返りながら考えてみたとき、冒頭の言葉が三つ頭に浮かんできた。

 不思議なもんだよね。

 もう何度も聞いた曲や、何度も頭のなかで繰り返した言葉も、自分の人生観が変わってしまうと、全く違う意味をもって、再び目の前に登場するんだもの。

 

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自然という言葉の曖昧さと形而上学

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 「自然」という言葉ほど曖昧で、定義づけに自由度のある言葉はないと思う。自由で便利な反面、使い方を間違えると、一体なんのことを指しているのか分からなくなってしまう言葉、「自然」。

 自然って一体なんだろう。今の僕にとっての自然は、宇宙と量子。そして、その宇宙に造りだされた小さな要素の一つでしかない 人間である僕には絶対に読み解けないであろう、「見えない何か」。

 以前のエントリでも書いたように、「言葉」というものは最終的にはオブジェクトを表現するためのもので、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、そこには必ずその言葉という道具を使う、人それぞれの価値観や感情、定義付けが関わってくるもの。ひとくちに「自然」といっても、ただでさえ幅の広い意味づけを出来てしまう言葉だから、その「自然」という言葉に対する想いが強ければ強いほど、誤解が生じることもある。

 結局世の中に在るもの、起こることは全て自然であって必然。でも、それを全てとして受け入れてしまうと、肥料を入れて農薬を撒くことも自然だし、ユダヤ国際金融資本も自然だし、戦争も自然だし、人を殺すのも自然だし、と、際限がなくなっていってしまう。挙句の果てには、逆説的に「自然農法は人の手が加わっているから自然じゃない」という裁断してしまう人も。

 でもその姿は僕にとっては、大きな湖を見た人が、「この湖は平坦だ。だから地球も平坦だ」というのと、「いやいや地球は丸いんだ。だから、その地球の表面にある湖も平坦ではなく丸みを帯びているんだ」と言い合っている姿に映る。

 形而上学と弁証法。別にどちらが正解で不正解なわけではないけれど、その両極の端っこ同士でなにかを語ることが、果たして建設的な躍進になるのか、と僕なんかは思う。「そちらではそうでも、こちらではそうじゃなくこうなんだ」と言い合い続けるのも、それはそれでオツなものなのかもしれないけど、僕が物事に対して必要とするイメージやスタンスは、飽くまでも前に進むこと。

 大切なのは、大きな視野で見ていくことと、小さく見ていくことの両方を、時と場合によって上手に使いこなしていくことなんだと思う。つまり「柔軟性」。今、そのとき、どちらの視点を強くもった上で観測するのが適切かを見極められるようになるには、とにかく柔軟な思考と感性が求められる。尊重すること、聞くこと、受け入れること、刷り合わせること、相互浸透。

 一番左から一番右に移動していくのは、きっと疲れるだろうし、その逆もまた同じ。でも、真ん中にいれば、どちらに行くのも、比較的容易で、それこそが柔軟性という中庸な姿に繋がっていくんじゃないかと、最近思うようになった。

 目的は、飽くまでも前に進むこと。

 「自然」という言葉の定義を、お互いの解釈や価値観の物差しで計りあっている時間は無い。そして、お互いの世界観を、別々に、バラバラに分別して、そっちはそっち、こっちはこっちと区分することに、僕はあまり興味をそそられない。なぜならば、宇宙の中では、何一つとしてバラバラなものはないし、皆それぞれ必ずどこかで繋がっている。それを人間の解釈で分別できた気になることに、あまり意味はないのではないかと思うからだ。

 正解も不正解もない。聖も邪もない。あなたも私もない。ただあるのは「自然」のみで、全てが一つのものとして共存しているだけのこと。

 わけないわけない、すべてはひとつ。

 弁証法も形而上学的判断も、時と場所、判断を誤れば、それは一切の無と化してしまうのだということが、よく分かった。

 柔軟に、伸び縮みできる、思考回路が、欲しい。

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自然の流れと微小な緊張感

(肥料を与えられずとも、真っ赤に育つりんごの実。常識がどう言おうと、きぞんかがくがなにをがなり立てようと、そんなことはお構いましに、自然界はその営みを、紡ぎ続ける。そして、無肥料無農薬のりんごの実は、今日もその実を赤く染めていく。)

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 流れが来てる。自然界の流れ。

 ついこの間も、日本列島の真上を、雲が東から西に流れたんだそうな。

 つまり、全ての流れが、日付変更線に一番近い、世界で一番最初に夜明けを迎える日本という国を中心に、東から西へ流れようとしているということ。

 2008年、8月。

 「9月には大変なことが起こるよ」

 とある人が僕にそう告げた。

 2008年、9月。 

 リーマンブラザーズ証券が破綻した。

 日本の株が、予測どおり暴落を始めた。円高が止まらない。

 もう、1年前から決まっていた。

 でも・・・ 

 イギリス?

 ロスチャイルド?

 今の僕には、そんな風には全然見えない。

 仕組まれているなんて、思えない。

 ただ、仕組んだ存在があるのだとすれば、それは恐らく「宇宙」という名の、名も無き神様。

 名前があるのに、名も無い神様。

 コシミズさんの言葉を借りるなら、サブプラ大明神さま。あの人は、分かっていないフリをしながら、きっともう全部分かってる。今の流れが、どれだけ大きなものかを。そして、どうすればその流れを掴んで前に進めるかも。 

 最近の僕はいつもどおり忙しくて、リチャード・コシミズさんや独立党のことをガシガシ取り上げる心の余裕がないんだけど、最近の勉強会の様子を見ていると安心感がありすぎて、もうなにも言葉はない。この流れは誰にもきっと止められない。

 僕が今考えて、感じて、見聞きして、関わっていることなんて、今の世の中の流れにとっては微小なもの。

 誰もが自分で動いている様で、実は、動かされているに過ぎない存在。

 でも、鼻くそほじくってちゃぁ、先には誰も進めない。

 神様、サブプラ大明神さまは、今、きっとこう言っている。

 「お膳立てはワシがやったんだから、あとはお前さんたち人間で頼むよ」って。

 準備は既に整った。今後の流れは僕ら次第。マヂで、今後は僕ら次第。でも、やるべきことなんて本当に限られてるんだよね。目の前にある、真っ当なことを、ただやるだけ。取り組むだけ。表現していくだけ。でも、それが、後々大きなことに確実に繋がっていく。

 2012年。時間は、もう無い。残された時間は、本当にもう僅か。

 それを、一体どれだけの人が感じられているのだろうか。

 分からない。分からないけど、僕には僕でやるべきことがあって、それはいつしか僕に与えられたこと。

 自分で選び、与えられたこと。

 誰にでもある。この時代に、今を生きている人には、必ず与えられたものがある。やるべきこと、成すべき使命がきっとある。

 諦めたら終わり。

 人は誰だって、自分の思ったところに行ける。思ったように、なれる。

 想いが強ければ強いほど、工夫を重ねれば重ねるほど、必ずそこに行ける。 そういうように出来ている。

 それが、流れ。

 掴めるか、掴み損ねるか。ふたつにひとつ。

 そんな、微小な緊張感を胸に、僕はもう少しだけ前に、ちょっとだけ前に、進む。

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とんかち

 どれくらいぶりだろうか。久しぶりに「こらっ!」って怒られた。

 もちろん声に出して「こらっ!」って言われたわけじゃないけど、突如僕の頭に振り落とされたとんかちに、綺麗な星が舞った。

 本当に久しぶりの星だったんだけど、ちょっと前までは「こらっ!」って言われても、「え~、なんで俺が・・・?」と、どう客観視してもそうとしか思えない状況ばかりだったんだけど、今日は違った。

 なんというか、どれだけ自分を客観視していても、しているつもりでも、気がつかない内におかしなことをしてしまっていることというのはよくあること。それに、一瞬で気がつかされたというか、目を覚まさせていただいたというか、その理路整然とした流れと共にきた「こらっ!」という久しぶりのとんかちは凄かった。

 まるで、T屋で「小吹はダメだ。ロボットみたいに頭がガチガチでよ、融通が利かなくてよ。あいつは首だな!」と身振り手振りを加えて声高々に言い放ちながらも、瞬時の判断で運営部を廃止したあのときのリチャード・コシミズ氏の神がかり的な立ち居振る舞いのごとく、感服させられた。

 突然のとんかちは、僕にとっては愛だった。

 「主はなんだ」と問いかけられたとき、まるで推理小説の犯人が自分の推理とは全く違っていたときのごとく、「なんでそんなことに気がつかなかったんだろう」と、「当たり前」を「当たり前」に見失っていた自分を恥じた。

 全てが一瞬にして吹き飛ぶ、清清しい感覚。

 とんかち。

 やはり、自然農法・自然栽培に携わるって、素敵なことだ。

 そして、それに携わる人たちは皆、それ以上に素敵だ。

 そして、感謝を忘れちゃ人間終わりだ。 

 そう思った、秋の日の夜。

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