駄言・日記

内か、外か、

    Sisitounohana

 因果という言葉があるように、結果があれば、必ずそこにはなにかしらの原因がある。作用反作用の法則。これは完璧なる自然の法則のひとつ。誰にも否定することはできない。

 例えば、人間同士の間になにか問題が起こったとするならば、そこには必ず原因がある。そしてその原因は、その関係が一対一のものなのであれば、どのような場合でも、お互いになにかしらの原因が、必ずある。

 ふたつの原因がぶつかりあい、結果が生じたとき、当事者二人がお互いに取れる行動はふたつある。

 ひとつは、自分ではなく相手側にある「原因」に焦点を当てて、そこを攻撃する。

 もうひとつは、自分の持っている原因に焦点を当てて、それを取り除く。そして、相手には、まず自分から詫びていく。

 原因はお互いにあるのだから、どちらの手法を取るかは本人次第。ただし、相手に原因を求めるのはとても楽な道で、しかも攻撃性・排他性を伴うから、非常なエネルギや時間を消耗し、根本解決に至らない場合も多い。なぜならば、相手の原因を攻撃しても、自分が抱えている原因はなにひとつ変わらないからだ。

 逆に、自分に原因を求めることはとても難しいし、とても苦しいことだと思う。でも、お互いに、原因を内に求めることができるならば、攻撃は必要ないし、なによりも問題はスムーズに解決に向かって動いていくことが往々にして多い(と思う)。

 もちろん相手にも必ず原因があるわけだから、そこを言及することが悪いことではないと思うし、その姿勢が、生じた問題を必ずしも解決しないとは思わない。

 ただ、「あいつが原因だ」「あれが悪い」とぶつかり合うよりも、お互いが、内に原因を求める姿勢のほうが、問題解決にかかるまでのエネルギや時間は、相当に短いということを、少なくとも僕は僕なりに、自然農法栽培の原理原則から学んだ。

 なぜならば、相手に原因を求めるということは、自分を善とし、相手を悪として、自然界には存在しない善悪の分別という意図的な「人間の判断」を盛り込まなければいけないシーンが、どうしても増えてしまうからだ。

 他人を落として自分を上げるのは、とても楽なんだよね。

 もちろんすべてがすべてそういうケースではないけれど、それでも僕は、難しくて辛いかもしれない「自分に原因を求める姿勢」を忘れたくはない。

 なぜなら、「原因を内に求める」姿勢こそが、自然や土に近づいてゆくための大切な要素のひとつだということを確信したから。

 容易なことではないけれど、日々、挑戦していきたい。

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「感謝」の反対

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 「感謝の反対語、なんだか分かる?」

 「ん~」

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虹のかけら

   

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 今日は畑でナスの収穫。朝4時起床。

 まぁそんなこたぁどうでもいい話なんだけど、季節もそろそろ秋に入りはじめて、朝はとっても涼しくて過ごしやすい。ちょっと寒いくらい。

 ただ、あまりに朝早くて眠かったので、出荷を終えた後昼寝しようと思って家に戻ったら、家の前になにやらキラキラ光るものが落ちてた。

 近づいてよく見てみたら、それはきれいな虹のかけらだった。

 でも、この虹のかけら、不思議なことに、どこから遮っても全然消えない。一体どこから差し込んだ光なのかよく分からなかった。日陰だし、周りに光を反射するようなものもない。

 まぁとりあえずどうでもよかったんだけど、最近ブログで書くこともないし(ホントは有りすぎて困ってるんだけど、体力的に追いつかない)、とりあえずネタとして撮影したのが上の画像。

   

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 んで、今度は夕方。

 軽トラを運転して畑に向かってる途中、きれいな秋晴れの空に浮かんだ雲の合間に、さっきと似たような虹のかけらが浮いているのを見つけた。

 ちょっと画像が粗くて申し訳ないんだけど、中央に見えるのがそのかけら。

 はじめはただの虹かなと思ったんだけど、輪になってる感じもしない。その部分だけがぼんやりと、うっすら七色っぽく光っているだけだった。

 この虹、夕暮れまでずっと出てた。見つけてから1時間くらいかな。不思議な光だったなぁ。


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セミのヌケガラ

   Cicada

 自宅の前に転がっていたセミの抜け殻。抜け殻といっても、幼虫が脱皮したものではなくて、成虫が死んでしまった後の姿。

 「体」とか、「亡骸」なんていう言葉があるけど、人から聞いた話では、体という物質と魂というものはまったく別のもので、体というものは魂が宿る殻のようなものなんだとか。

 魂が空だから、空魂(からだま) = 体

 魂が無くなった殻だから、無殻 = 亡骸

 考え方のひとつとしてとても面白いなぁと思った。

 このセミにしたって、きっとこうなるまでは、長い長い幼虫時代に想いを馳せながら、ミンミンと鳴き尽くしてジジと空を飛んでいたはずだ。でも、時期が来ると、こうして動かなくなり、そのままの姿でその一生を終えていく。

 でも、元々このセミの体を動かしていた「何か」は、一体どこへ消えてしまったのだろうね。よくは分からないけど、すごく不思議だ。

 このセミの抜け殻も、時が立てば、アリなどのエサになったりして分解され、最後はきっと土に帰っていくのだろうか。

 生命って、一体なんなんだろうね。

 生きることと、死ぬこと、生命が今ここにあることと、ないことって、一体なにが違うのだろうね。

 さっきまで意思や法則性をもって動いていたセミという生き物・生命体が、ぱたっとそのままの「形」で動かなくなり、死んでいく。

 でも、死ぬってなんだろう。

 魂なんて、あるのかな。

 あるとすれば、それが肉体から離れたときが「死」と定義すればいいのか。

 

僕にはよく分からないけど、やはり、自然や宇宙の節理・法則というのは、どこまでいっても不思議なことが詰まっているのだろうなぁと思った、夏の日。















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スズメの手当て

 今日、どうしてか分からないんだけど、しっかりとカギをかけて戸締りをしたはずの、僕の畑の片隅にある掘っ立て小屋に、小さなスズメが1羽、迷いこんでいた。 

 保管している米や豆でも食べにきたのかと思って追い出そうとしたんだけど、よく見たらそのスズメ、すごく弱ってた。

 バタバタと羽を羽ばたかせても飛べないくらいに弱ってた。

 助けてやろうとしてたら、小屋の中をぴょんぴょん跳ねて逃げ回るから、なかなかつかまらない。

 でも、逃げ回るうちに力つきたのか、諦めたのか、弱った体をようやくつかませてくれた。

 温かかった。

 消えかかる命の不思議な温かさ。

 ぱちくりとした目がとても可愛かった。

 このままキュッと握りしめてしまえば簡単に殺せてしまうほどに、はかない命。

 でもスズメは、慌てる様子もなく、ジタバタともせず、じっと僕の手に掴まれて、不思議そうな目で僕を見つめてくれた。

 心なしか、安心した様子で僕の手の中に納まってくれている。

 僕は、人間にはよく嫌われるけど、動物には結構好かれるのだ(笑) 

 とりあえず、このまま放置したら死んじゃいそうだったから、10分ほど、掴んだままの状態で簡単に手当てをしてあげた。

 もちろん治療といっても、僕はなにもしてないけれど、スズメは元気になって、うれしそうに空に飛び立っていった。

 まだヨロヨロした飛び方だったけれど、あの調子ならもう大丈夫。

 なんとなく、心が安らいだ。

 僕も、少しだけ元気になった。

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そこに「愛」と「真実」はあるか

  Mizutama

 「結局のところ、不自然なものなんてなにひとつとしてないし、すべてが自然のもの。ただ、その中で人間が、なにを選択していくかが大切なんじゃないかな。」

 都会を離れて、田舎に引き込み学んだ「自然観」。

 田舎を離れて、都会で過ごした数日間で思い出した「忘れかけていた大切なもの」。

 人間というのは、結局のところ無いものねだりのワガママな生き物でもあり、常にその両端、いや、自分という中心点から一定の距離にある定点のあつまりであるところを行き来して、「自分」という本来あるべき姿を少しずつ理解していくもの。

 「これが自然だ。」

 言うのは簡単だ。

 でも、これが自然で、あれは自然ではないのかといえば、僕は、決してそんなことはないと思う。

 すべてが自然だ。どちらも自然だ。

 自然の節理や宇宙の法則というのは、常に大きなものでしかないのだから、自然でないものなど、そもそもこの世の中には存在しない。

 確かに、人間の小さな視野で捉えたとき、自然ではないように錯覚するものも、世の中にはたくさん溢れてる。でも、その「不自然に見えてしまうもの」の本質は、常に「自然」でしかないということを忘れてはいけないと思った。

 これが自然。あれは不自然。

 そう二つに割って判断すること自体、本質を逸脱している。善悪を分別し、民族を分断し、恐怖と支配をつくり出したユダヤ権力と同等の思想。

 その根底にあるのは、ただの「カルト思想」。

 冗談じゃない。

 僕はただの普通の人間だ。

 そして、ただの普通の独立党員だ。

 自分なりでもいいから、物事は、常に分析的に見ていきたいと思っている。

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解釈 三度目

   Popo

「小さな犯罪でも動機のわからないものは沢山あります。大きな戦争でも、それは同じことです。テロだって、突き詰めていけば、動機なんてわからない。ただ、正義を装った言葉として解釈されているだけです」

「恨み辛みがあった、というものが多いと思うが・・・・」

「そう捉えられているだけです。どうしてやったんだ、ときかれれば、むしゃくしゃしてやったとか、頭に来ていたとか、なんとなくその場で思いついたことを話す。それが動機というものになった。まったくの幻想ですよ」

---------------(中略)----------------------------------------------------------------

「社会を恨んでいる、日本という国家を恨んでいる、人間のすべてを恨んでいる、幸せな状態を恨んでいる、自分以外のものすべてを恨んでいる・・・・・。なんだって言えます。言葉にすれば、どんなものでも理由にできる。そうすれば、どんなに不可思議なものではあっても、社会はとりあえずは納得してくれる。少なくとも、動機という空欄を埋めて、ファイルを片付けることができるというわけです」

「うん、わからないでもないけどね、それはかなり、極論ではないかな?」

「では犯罪が起こって、その犯人が捕まったとき、どうして動機を尋ねるのでしょうか?動機が正しければ、その犯罪が許されますか?」

「少なくとも、まず正当な理由があるものならば、裁判で罪が軽くなる可能性はあるんじゃないかな。どうしようもなくて犯行に及んだ、ということであれば、それなりに酌量されることになる」

「酌量することで、社会は何を得られますか?」

「うん、そうだね・・・、人に対する優しさかな」

「しかし、たとえば、殺された被害者の家族は、その分だけ、憎しみが増すでしょう」

「そういうことはある。たしかに、それはある。たとえば、犯人が未成年だったとか、心神喪失状態だったとか、そういった場合にえてして起こりえる問題だ」

「動機を明らかにすることで、あるいは、動機を分析することで、社会はその犯罪を未然に防ぐことができるでしょうか?」

「それも、ある程度の効果は期待できる、あるいは、可能じゃないかな。不平等があるならば、それを正して、そういった不満が起こらないような社会を作れば、犯罪を減らすことができる」

「そういった犯罪ならば、既に減っています。今はただ、大衆は犯人の動機を知って、同情したり、あるいは怒りを新たにしたり、呆れたり、そんな反応の感情を抱きたい、ただそれだけのことです。そうじゃないと、どう反応すれば良いのかがわからない。反応ができないものは収まりが悪い、というだけなのです。結局は、収納の問題で、レッテルを貼ろうとしているだけです」

「うーん、まぁそういった面はあるかもしれない。これだけニュースがショーになってしまうと、その場かぎりであっても、とりあえずの落としどころを用意する必要があるってことだね。実際には、裁判があって、ずっと長い期間かけて取調べや検査、診断が必要だ。でも、とにかくまずは言葉による一応の結論を欲しがる、というわけだ」

「そのとおりです。テロや戦争においても、それはまったく同じです。人は、言葉で解釈し、その言葉で怒りを覚える。こうして怒りを煽り、人を動かして、戦いを始める。あるいは、自分さえも、その言葉に酔ってしまう」

「そういうふうに、君は考えているんだ。冷めているね」

「冷めている、というのも、解釈ですよ。それで納得したい、というのであれば、けっこうです」


講談社ノベルス 森博嗣:著 「εに誓って」より抜粋

 この文章を自分のブログに転載するのは今日で3度目。

 人というのは、どこまでいっても「言葉」や「解釈」に、なにか大きな力があるとでも言わんばかりに、それらを妄信しているように思える。

 もちろん「言霊」というエネルギは存在するし、それは僕も最近の私生活で「言霊」というものの力の大きさは体感している。ただ、人は、自分の価値観から生まれる「言葉」や「解釈」が、自然の現象というか、事実や真相、真理、真実を表現・体現できているかのように、誤認しているのではないか? と疑問に思うことも多いのだ。

 例えば僕が、なにかを「黒」と表現・解釈したところで、事実事象が「黒」になるわけではない。

 自然の世界や自然の現象には、白も黒もなく、あるのは、ただ一つ、ありのままの姿でしかないのだ。

 人間の利用している「言葉」というものは、その自然の姿を忠実に再現することは、ほぼ不可能だと僕は考える。

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カルマの消し方

   Cherinoha

 最近、「人はカルマを消すために生まれてきた」という、一風変わったお話を聞いた。

 「カルマ」とは一体なにかといえば、自分自身が生まれてくる前に自分で決めてきたスケジュールのようなもののことをいうのだそうだ。

 でも、そのカルマを消すには、ひとつだけコツがあるのだという。

 今は2012年の式年遷宮に向けて、日本の八百万の神が動き出している時代。そして、その日本神界(?)と相反するタルムードを発祥とする悪魔崇拝邪教(FRBとかCFR)の連中は、天照が動き出す前に、世界をひとつにまとめてしまおうとして動いている。(これは飽くまでも現状の僕の理解)

 そんな時代に生きている僕らは一体なにかといえば、父や母、祖父や祖母、その上の上のもっと上の何百人、何千人という祖先たちの代表として、今を生きているらしい。つまり、今の時代は、これまでの時代とは違って、ある種特別(?)な時期であり、そこを生きている人たちは、それぞれみんななにかしらの役目や役割をもって生まれてきているという考え方なんだそうだ。


 
 祖先の人たちというのは、肉体を持ない物質的な存在。そして、その存在は、古神道でいうところの八百万の神につながっている。

 八百万の神というのは、日本列島を取り巻く自然界のこと。

 で、自然界には「善と悪」はないから、八百万の神でもある祖先の人たちは、代表選手である僕らに、「お前とっととカルマ消しとけよ! まだあと6つも7つも残ってるぞ!」とお怒りになっている場合が多いと聞く。

 なぜ今この時代に、「カルマ」なるものを消さなければいけないかは、輪廻やらなにやらの、ちょいと難しい話を書かなければいけないから避けるけど、とにかく僕らはそれぞれ自分で決めてきた「カルマ」というシナリオを消去するために生きている。

 (ちょっと話が怪しいと思う方もいらっしゃるだろうけど、これは決して「アセンション」とか「フォトンベルト」なんかのお話ではなく、飽くまでもひとつの考え方の指標としての参考程度にとどめて欲しい)

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 カルマを消すためには、すべての出来事や結果に対して、感謝することだけでいいんだそうだ。

 身の回りに起こることにはすべて意味があるから、例えそれが自分にとって一時マイナスとなるようなことであっても、すべての事象や現象は、自分の後ろに大勢いる祖先の人たちが、「早く気がつけよ!」 という想いから起こされることなので、その人たちに「気づかせてくれるような出来事を起こしてくれてサンキュー」と思えればそれだけでいいらしい。

 例えばお金を盗まれたり、肉親を殺されたり、車にぶつけられたりして、それに心から「サンキュー」と思える人っているかな? 思えれば消えるのが「カルマ」。思えなければ消えないのも「カルマ」。カルマが消えないと、今後いろいろな意味で大変らしい。

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 (今日は久しぶりに家でゆっくりとくつろぎながら書いているんだけど、お酒が入ってて、自分でも一体なに書いているのかよく分からなくなっている。でも、とりあえず続ける。)

 教習所で「ハインリッヒの法則」とうのを教わった方もなかにはいらっしゃると思うけど、カルマ発生の法則は、これとほぼ同一だと僕は考えている。

 ハインリッヒの法則に関してはコチラを読んでいただくとして、とにかく僕らが常日ごろ出会う出来事は、すべて祖先の人たちが「自分で組んできたシナリオであるカルマ」を消すために、必死に与えてくれているものだという捉え方ができるらしい。

 「楽しいな」と思うことも「むかつくな」と思うことも、実は偶然ではなくすべて必然で起きているとしたら、こんなに面白いことはない。例えどんなこが起ころうとも、「じいちゃんばあちゃんありがとー!」という感じで能天気に受け入れていくことで、ひとつふたつとカルマ(というかノルマ?w)が消えていくらしい。

 でも、ひとつだけ注意しなければいけないのは、ハインリッヒの法則と同じで、祖先の人たちが、はじめは小さくて簡単なことで気がつかせようとしているのにも関わらず、「くっそー、なんでオレがこんな目にあわなきゃいけねーんだよ」とか思っちゃったりしていると、祖先の人たちは少しずつ、「こいつはこんな程度じゃ気がつかないから、もう少し大げさな出来事を準備しよう」ということになって、事態は少しずつ深刻になっていくということ。

 そして、やがて取り返しのつかない大きな出来事に巻き込まれてしまうそうだ。

 でも、最初に書いたとおり、昇天した祖先の人たちは自然と一体化してしまった存在で、善とか悪の分別をつけることはできないから、今を生きている自分自身が、毎日楽しく笑顔でいれば、「あぁあの子はああいう顔をしたがる子みたいだから、ああいう顔ができることをどんどん用意しよう」となるし、いつも、疲れた、むかつくと言いながら、、不安や悩みなんかを抱えて苦しそうな顔をしていると「あの子はああいう顔をしたい子みたいだから、どんどんああいう顔をさせないと」ということで、辛くて苦しいことを用意されてしまう。

 祖先は、決して僕らを苦しめようとしているわけではなくて、「とにかく早くカルマを消して欲しい」一身で、必死に訴えかけているだけ。2012年を間近に控えた特殊な時代を生きる代表選手である僕らに、気がつかせようと必死。

 そこには善意も悪意もないらしい。

 結局のところなにが言いたいかといえば、辛いことや苦しいことがあっても、それらはすべて必ず意味がって起こっていることだから、歓迎的に受けいれて、いつもニコニコ笑って楽しそうに生きていれば、ハインリッヒの法則のような「300:29:1」の「1」の部分に出会わずに、素敵な一生を送れるんじゃないかなぁということ。

 どれだけ楽しいことも、どれだけ辛いことも、みーんな日常の自分の受け取り方や心の持ち方が、相乗効果で呼び寄せていることを、肝に銘じておかなきゃいけないなと思う。

 むっちゃくちゃに辛いことでも、笑顔で「ありがとう」と言えるようになったとき、カルマは消える。

 すべてのカルマが消えたとき、人は本当の意味での自然に近づくのではないかと思う今日この頃。

 原因は、いつでも必ず自分の中にある。

 敵は外にはいない。

 そのことを忘れないようにしたい。

 そして僕は、腐るのではなく、発酵する生き方をしていきたい。

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自然に生きること

  Photo

 農繁期を迎えて、ブログを書く時間、余力がまったくといっていいほど無い僕。

 画像は、ここんところ僕の畑の付近をうろうろしているシャムっぽいネコ。飼い猫なのか、ずいぶんと人懐っこくて可愛いのだ。

 @

 それにしてもここ一ヶ月ほど、僕の身の回りには、「ホントかよ!?」と思わざるを得ない出来事が、怒涛のように押し寄せている。

 まるで僕の体と心に溜まりきった肥毒が、一気に噴出して虫病気を呼び寄せているかのようだ。

 でも、もうなにも恐れることはない。ただただ心地よい。

 すべては事前に決まっていたこと。意味がある。

 自然に順じて生きていると、思わぬ出来事に遭遇する機会が増える。

 だから楽しい。

 あ、眠い。

 寝よう。

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ダイコンノハナ

  Daikon

 しばらく前に撮影した、自家採取の自然栽培ダイコンの花。

 淡い紫とやわらかい白のグラデーションが美しいちいさな花を、か細く、けれども力強い生命力をもった茎が支えていた。

 「へ~、ダイコンの花ってこんな色してたのか」

 誰もいないだだっぴろい畑の中で、ひとりつぶやきながら、カメラのシャッタを切る僕。

 どこからか、風。

 最近、ここぞというときには、決まって、一本の風が吹く。背中を押されるかのような想いだ。

 目で見て、耳で聴き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、両手で触り、心で感じる。

 人間に与えられた六つの価値観を満開にすることでしか分からないこと、掴めないことがある。

 それは、ダイコンの花の色だけじゃない。

 自然という、ひとつの大きな生命体のことすべてが、感じることでしか分からない。

 そういう仕組みになっている。

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ブレないこと

      O_2

 「あいつは無口で、地味で、ヤワに見られてるけど、あいつほど一本筋の通った芯のあるギタリストを見たことはない。もしもあいつが他にごまんといるギタリストと同じに見えるなら、それは、あいつの作戦にまんまと騙されてる証拠だ。あいつは、他とは全く違う。」

    Oo

 生まれて初めて、同性に憧れを抱いた10代のころ。

 憧れていたのは、一人のギタリスト。

 寡黙で、華やかさは無くても、誰よりも存在感を放っていた。

 「自分はただのギター弾き。その事実だけで十分」

 そう言って、ひっそりと微笑んだあの人の笑顔は、今でも忘れられない。

 あの人は、誰よりも輝いていた。もちろん、今も僕の中では、今でも輝き続けてくれている人の一人だ。

 冒頭のセリフは、そんな僕の先輩が憧れを抱いていた人の、先輩に向けた言葉。

 周りには見えなくても、他人には理解されなくても、本質を認め合う二人のギタリストの関係に僕は、自分が将来あるべき姿の片鱗を、見出していた。

 どれだけ売れても、どれだけ巨大なステージでも、あの人は、なにひとつ変わらなかった。

 ブレなかった。

 自分の見据える先を、自分の行くべき道を、常に冷静に捉えて、業界やシーンに囚われず、そして、自分自身のエゴにも囚われず、ただ真っ直ぐに音だけを見つめていた。

 音と向き合う人間の実直な姿は、純粋に、美しかった。

 右でも左でもない。

 善でも悪でもない。

 売れるでも、売れないでもない。

 他人でも、自分でもない。

 僕は、あの人のそんな、自然体で純粋に音を楽しむ幼子のような姿に、ただ、惹かれていた。

 いつでも、どこでも、自分を見失わないままに、常に真を見出す心行き。

 常に、自分でいることの難しさ。

 常に、自分でいないことの大切さ。

 あの人は、僕にそれを教えてくれた。

 いつかは僕も、そんな人間になりたい。

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必然性に潜む意味を解く

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 全てのことは必要があって起こることで、そこには必ずなにかしらの意味が込められている。

 ここ最近、バカの一つ覚えのようにそんなことを頭の中で繰り返してるんだけど、僕はそれは間違いないと勝手に思い込むことに決めている。

 例えそうではなくても、そのスタンスを決め込むことは、非常に大きな力になることに気がついたからだ。

 必然性と、それに起因する現象に潜む意味を追い求め、正確に把握し、理解する姿勢。

 僕にとっての今年のテーマはそれ。

 日々漫然と生きた僕と、その姿勢を保った僕。

 大した差はなくても、5年後にはそれが大きな違いとなって現れる。

 その後が、本当の勝負。

 いざ。

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矛盾はあっていい

 

 

 なにがあっても変わらない柔軟な心が、全てを変えていく。

 矛盾?

 矛盾こそが、物事の二重性、つまり本質を指し示す指標のようなもの。

 全てを突き刺す矛と、なにものからも身を守る盾。

 どちらもあっていいじゃない。

 知らなきゃいけないのは、ゼロとイチの間。

 答えは、きっとそこにある。

 人間ではきっと、見ることのできない、そこに、なにかがある。

 

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分別しない。解釈しない。自分は無。

(以下 玉蔵さんのブログから引用)

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに


よく見聞きし分かり

そして忘れず


野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい

宮沢賢治さんの有名な詩 「雨にも負けず」です。
でくのぼーといわれ、いつも静かに笑っている人が出てきます。
奴らはこういう人が一番おっかない。
こういう人に会うと奴らはヒザがガクガクして失禁してしまい、
金玉も恐怖で張り付いてほうほうの体で火星に逃げていかざるえないのです。

皆さんもこの精神で、今のキチガイ社会の常識から脱して下さい。
ワタスの目標です。
毎日できるだけ雨にも負けずの人に近付くように努力しています。
最近は、田舎にひきこもり形だけ近づく努力をして
いつかこのような人になりたいと思っています。

今の社会の他人を蹴落としてまで金を稼ぐという常識こそ
奴らが作りだした常識です。
人を憎んだり、恨んだり、そねみ、ねたみ。そういった類の人間の
悪感情というのは、妄想から生まれると何度も言っています。
勝ち組、負け組などと誰が基準を決めたのですか。

きれいな服をきて、きれいなマンションに住んで、高給取りで。
そういう生活が良いと誰が決めたのですか。
単なる妄想です。だから、妄想に凝り固まった人は、破壊的な感情に支配されます。
奴らの良いカモになるのです。
妄想を解き放てば馬鹿にされても、何とも思わなくなるのです。
馬鹿にされても、ただ静かに笑うだけです。

何を基準に人を馬鹿にしているのか、笑い物にできるのか。
妄想に支配されているだけではないですか。
哀れに思いこそすれ、馬鹿にされても怒る気持にもならないのです。

お前は派遣社員で、俺のように正社員になれなかったかわいそうな奴などと
誰かが言ったとします。
ワタスから言わせればちょっと待遇が違うだけで、
どちらも奴隷に変わりないではないですか。
奴隷なら奴隷どうし仲良くすれば良いのにと思うだけです。

例えば会社という組織は、社員にせこせこと働いてもらわねば困るのです。
ですから、部長、課長、係長、平社員、契約社員、派遣社員などという序列を作って
目の前に、昇進だの昇給だのというニンジンをぶら下げるのです。
ここまで頑張れば正社員にしてやるよ。ここで踏ん張れば部長にしてやるよとか何とか。
それで、社員はせこせこ雀の涙のような給料でこき使われるのです。

その昔、おもしろい体験があります。
ワタスは若いころ、柔道をやっていますた。
ワタスの通う町道場は、最初は人も少なかったのですが、
だんだん生徒も増えてきて盛況になってきたとたん、
何と帯の種類が増えたのですた。

要するに黒帯というステータスに簡単にたどりついてもらっては困るのですた。
白帯、茶帯、黒帯と三段階しかなかったのに、
青帯とか、黄色帯とか訳の分からない色が間に入って
ピラミッドの階段が増えたのですた。
そうやって黒帯のステータスを上げるのです。

俺は部長だからといって平社員をさげすみ、馬鹿にするような社員は
奴らの術中にはまった人なのです。
奴隷どうし憎しみ合わせて、本質を見えなくさせる。
良いカモではないですか。

奴らは、そうやって訳のわからない妄想の価値判断基準を作りだすのです。
そうやってお互いに競わせて、いがみ合わせるのです。

こういう人はすばらしいのだよ。
女性なら、目がぱちくりして、肌が白くて、贅肉がついてなくて、スタイルが良くて。
などとしきりにメディアを使って理想像を作りあげるのです。
浜崎あゆみさんという人が良いのだよと言われれば、みな若い人は
浜崎さんの真似をします。
ワタスから言わせれば南極一号の方がよっぽど可愛らしいと思うだけです。
南極一号についての詳細は
⇒こちら※注(18禁)

やつらの術中に見事にはまった人は、人を羨み、ねたみ、そねみ。
そして、しまいには、憎んだり、恨んだりするのです。
いったい全体誰が価値判断の基準を決めているのですか。

世に知識人と言われる人がいます。
最近の知識人はアメリカかぶれなのか何なのか。
小難しそうな言葉を並べて、英語交じりの日本語だか英語だか分からない
ちゃんぽん言語を自慢しています。
そもそも、街中でたわいもない話に夢中になって笑い転げている女子高生と
しかめっ面していかにも難しそうなことを考えてますよと言う中年オヤジと
何の違いがあるでしょう。

ワタスからしてみればよっぽど無邪気に笑う女子高生の方が崇高に見えるのです。
ワタスが人恋しくて里に下りた時、時々食べに行く蕎麦屋のアルバイトの店員さんがいます。
いらっしゃいませーとハツラツと働く姿は何と崇高なことか。
そこらへんの知識人に爪の垢を煎じて流し込みたいぐらいです。

世の中には障害者がかわいそうなどと言う人がいます。
よっぽど、あの人の方が勝ち組、私は負け組などと日々、
妄想に心をちりぢりにすり減らしている一般人の方が可哀そうではないですか。

前にも書きましたが、人間、やってることは物を食べてウンコを作り出しているだけです。
どうせウンコを作るだけなら回りくどく作らずに普通に作れ!と突っ込みたくなるだけです。

子供を学習院などに入れて、少しでも華族だか貴族だかの上流の仲間入りを
しようなどというあさましい母親もいます。
この世の地位とステータスと思っていたものは、自分の心のあさましさ
を表す指標だとなぜわからないのでしょうか。

湯田屋のプロトコールを読んで下さい。
プロトコールというのは、要するにマニュアルです。
マクドナルドの店員が読むのは接客マニュアル。

これは、太古の昔からやつらが読んでいる人間の支配マニュアルです。
まぁ、長いので暇があれば読んで見て下さい。


http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/puro.html

すべての人に親切で、無私であり、でくのぼーと呼ばれても、いつも静かに笑っている、
そういう人こそ、いまからの時代生き残るのです。真人間こそ生き残るのです。
時間が残されていません。
妄想を取り除いて雨ニモ負ケズの精神で生きて下さい。

(以上引用)

 僕はここ数ヶ月間、分別するな、自分の勝手な言葉や感覚でなにかを解釈して判断するな、と自分に言い聞かせてきた。

 ユダヤハザール最大の発明は、人間に「判断」というものを与えて、「恐怖」を生み出したこと。彼らは、たった一つであるものを二つに分けたのだ。そこから彼らは、人の心を上手に左右できるようになった。

 例えば、「あいつは○○だ」とか「あの人は□□だ」と表現したとしよう。するとその時点ですでに、「自分とあいつ」「私とあの人」というように分別して、「○○だ」「□□だ」と、自分の内面にある狭義な価値観の範囲でなにかを勝手に解釈することに直結している。

 それは、自然の流れじゃない。原理原則に反した人間の行為。

 つまり、分別や解釈というのは、至極小さな自分基準で物事を捉えるということになるんだ。

 自分に目を向けてみればいい。客観視を通り越して、観念的な二重化を自分に投影して実践してみればいい。そうすれば、自分がどれだけろくでもない人間かが分かるし、自分も他人も全く同じ認識(存在)であることが簡単に分かるだろう。

 自分も他人もへったくれもない。

 もちろん全てにおいてなにかを分別することや解釈することを否定するわけじゃない。ただ、主としなければいけないことは、「全ては皆一つで、分け隔てない」という原則を忘れない意識。

 そこを忘れてしまうと、全てが「自分以外のなにか」に成り下がり、我が主となり、エゴとなり、摩擦を生む。その摩擦の共鳴が、現代社会の成れの果て。

>>今の社会の他人を蹴落としてまで金を稼ぐという常識こそ
奴らが作りだした常識です。
人を憎んだり、恨んだり、そねみ、ねたみ。そういった類の人間の
悪感情というのは、妄想から生まれると何度も言っています。
勝ち組、負け組などと誰が基準を決めたのですか。

 多くの人は、ユダヤハザールが長年かけて作り出した体系的な常識という名の枠・檻の中で生きてる。その外に、「全てが皆一つである」自然界が存在するとも知らずに、自分の今いるその場所だけが全てだと思い込まされ、生きている。つまり、妄想。お釈迦様もとい、ユダヤハザールさまの掌の中。

 金にせよ、政治にせよ、経済にせよ、教育にせよ、科学にせよ、整形サイボーグアイドルにせよ、みんな彼らに作り出されたもの。

 作り出されたものに囚われ、自然から外れた者は、やがては自然に淘汰される。必要が無くなれば、消えてなくなる。そこには、生も死もない。ただ、循環があるだけ。

 気がつく人には気がつくという役目があって、気がつかない人にも気がつかないという役目がある。ただそれだけの話。だから、彼らユダヤハザールにも与えられた役目があって、それは必要だから存在しているだけのこと。そしてそれが一度わかってしまえば、なにも恐怖はない。分別も必要ない。全てにはそれぞれ意味があって存在している。

 わたしもあなたもない。

 全て、一つの源の下に置かれている現象。同じ。

 バカにされても、罵られても、なにを言われても、どう解釈されても、僕は構わない。なにも感じない。

 意味、役目、流れ。

 全て必要がって何かのために起こっている。

 だから、そこに感謝の念が生まれる。

 そうすれば、もう5年先まであっという間だ。

 これから大勢死んでいくであろう人たちも、僅かに生き残る人たちも、全て役目がある。

 死に恐怖を感じる必要もない。選んだのは自分。決まっていた役目。

 生を恐れる必要もない。与えられた役目。選んだのは自分。

 どちらも、もうほとんど、決まっている。

 

 

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夜明けと朝焼け

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(自然のグラデーション。太陽がもたらす大きな力の元に、人間という生き物の微弱さを感じる朝。街はまだ眠っていた)

 ぼくの今いる場所には

 上も下もなくて

 右も左もなくて

 あるようでなにもない

 ぼくがいるのかいないのかもわからない世界

 遠くもなく近くもなく

 暖かくもなく冷たくもなく

 それが空

 宇宙

 どれもこれもみなつながっていて

 別だと思っているものはみな一緒

 太陽も

 月も

 星も

 水も

 土も

 動物も

 植物も

 人も

 ほんとうはただひとつのもの

 たったひとつしかないもの

 みんなおなじ

 みんないっしょ

 気がつけばぼくは今

 この土に生まれ

 この土に立ち

 話し

 考え

 笑い

 泣き

 感じ

 歩いている

 あなたもそれとおなじ

 ぼくもあなたもない

 ぼくはあなた

 あなたはぼく

 分けない

 分別しない

 みんなおなじ

 みんないっしょ

 こうしているぼくも

 やがてはもとの姿にもどっていく

 生まれては消え

 消えては生まれていく

 点滅

 いのち

 連続

 点と点のつながりが

 まるでひとつのもののよう

 ぼくはここにいて、ぼくはここにいない

 ありがとう

 さようなら

 こんにちは

 ありがとう

 どこにいてもみないっしょ

 つながっている

 いっしょ

 おなじ

 全ては、一つ

 今までも

 これからも

 ずっと

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気がつけば3年目

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 ここ数日、旧スペースのドリコムに書き残した昔の記事を転載する作業をしているんだけど、気がつけば僕がブログという珍奇な日常をスタートしてから3年が過ぎ去っていた。

 早いな。もうあれから3年も経ったんだ。

 色々あった。

 あっという間だった。

 でも、とても長い時間。3年。

 思えば遠くへ来たもんだ。物理的にも、距離的にも、心情的にも、精神的にも。

 3年前の僕は、一体どこにいったんだろう。探しても、もう見つからない。でも、相変わらず、一応存在はしているみたい。変わったけど、変わらない僕という存在。不思議なもんだ。

 ブログをスタートして3年間、ネットでも現実でも、色々なことがあった。今でこそ、「いいこと」も「わるいこと」も分別せずに解釈することができるようになってきた僕だけれど、当時は大変だったなぁ。

でも、振り返ってみると、今では全てが僕を形作ってくれている大切な宝物ばかり。そして、全てには意味があって起こったことで、全部こうなるように仕組まれていたんじゃないかと思ってしまうほどに綺麗なストーリーライン(?)が出来上がっている。

 ブログを始めて本当によかった。

 続けてきて、本当によかった。

 ただそれだけの感謝の気持ち。

 人間、変わろうと思えば必ず変わるんだ。

 そして、変わらない誓えば、自分を保てるということも学んだ3年間。

 出会いや別れはあるけれど、全ては自分のため。自分を前に推し進めるための原動力。

 そして、そこから作り出される僕は、「目的のため」の存在。

 自分を殺して、目標に捧げる。

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僕は昔「のび太」だった

「のび太は独裁者?!」1~3

 野球でヘマをして、メンバーから理不尽な総攻撃にあうのび太。そんなのび太に、「今度はそうならないように、さぁ練習しよう」と言うドラえもん。

 けれどものび太は、「そういうことじゃないんだよぉ。問題はジャイアンなんだよ。ジャイアンさえいなければこんな目にあわなくて済むってこと。どっかに引っ越しちゃえばいいんだ、あんなヤツ!」と、取り合わない。

 そんなのび太にドラえもんが出した道具は「独裁者スイッチ」。

 ジャイアン、スネ夫・・・次々とのび太の都合で消されていく人。

 とまぁそんなあらすじなんだけど、最近夕食を食べながらYouTubeでドラえもんを見るのが日課になりつつある今日この頃。つい最近シンエイの訴えでほとんどの動画が消されてしまったみたいなんだけど、昨日たまたま見つけたのが面白かったのでご紹介してみた。

 なかでも印象的だったのは、

 「僕が悪いんじゃない!」

 「ホントにもぉぅ!どいつもこいつも人のせいにばっかりして!」

というのび太の台詞。

 本質的な原因は「内」にあるにもかかわらず、全ての理由を「外」に求めたがる現代人の姿がよく描かれているように見えた。

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 結局のところ、自分の身の回りに起こる出来事は、全て意味があって起こっている。そして、その「意味」は必ず、自分が前に進むためにはなにが必要かを気づかせてくれるありがたいもの。

 どれだけ喜ばしいことも、どれだけ受け入れがたい嫌なことも、全く同じ。その二つを、「いい」と「わるい」に分別しないで、丸ごと飲み込むことのできる人だけが進める道がある。

 ジャイアンが悪い?

 スネ夫が悪い?

 ママがうるさい?

 いやいや、原因は全て自分にある。

 自分に原因があるからこそ、今、目の前にはその現象が起こっているわけで、それらは全て必要だから起こっていること。化学肥料や動物のウンチをたっぷりブチ込んだ畑の作物に現れる病害虫も、原因はそれを判断し投入してきた人間であり、その過剰な窒素成分を食べてくれるために、病害虫が「来て下さっている」わけだ。

 もちろん、ガンのような病気だってそうさ。農薬や肥料、添加物なんかで汚れた食べ物を食べれば、それが直接汚れた血になり汚れた細胞になる。身体には自然治癒力が備わっているから、汚れた血液をとりあえず清浄化するために、臨時で一箇所にまとめて造られるのがガン細胞。原因は、食に関する選択を誤った自分。ガンは、それを食い止めてくれるためのもの。身体の持ち主に「気づき」を与えてくれるありがたいもの。健康かむかむ塾の斉藤一治師匠が「がんは感謝すべき細胞です」と銘打っているのはそれが理由。

 身の回りに起こる全てのことは、自分になにかを気がつかせるための信号のようなもの。自然界からのメッセージ。

 それを正確にキャッチできるかできないかが、全ての分かれ道。

 原因を外にばかり求める人は、不都合なものばかりを引き寄せる。

 原因を内に求め、本質を追求する姿勢を持てる人は、不都合なものを跳ね除ける。

 僕は昔、のび太だった。

 僕は今も、のび太だ。

 たかがドラえもん。されどドラえもん。

 微小な物事も、心のもち方次第では、とてつもなく巨大なものとして、自らに力をくれるヒントとなる。

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ブログは僕の三分の一

(こんなに気合を入れてシャッタを切ったのは本当に久しぶり。何百枚撮ったことだろう。当分は木村さんのりんご畑の写真が続きます) 

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 僕のブログを読んでくださる方を、大きく二分すると以下の二つに分類される。

  • ブログの文章を僕の一部と認識してくださり、僕の人間性の本質を鋭く見抜く人
  • ブログの文章を僕の全体として認識して、全体像の把握を怠る人

 「なにを偉そうに・・」と思われるかもしれないけど、実際にそうであることは非常に多い。

 以前にも書いたことではあるけれど、僕がここに書く文章は僕という人間のほんの一部、せいぜい三分の一の具体化現象であって、僕そのものでは決して無い。

 ところが中には、ここの文章が僕そのものであるかのように勝手な解釈をして、勝手な想像を膨らませて、勝手な感情を抱く方は、未だに後を絶たない。

 人間の本質というのは、実際に顔をあわせて、目つき、顔つき、口調、表情、服装、歩き方などの、非常に複雑多岐な要素をしっかりと観察した上でようやく少しだけ見えてくるものであるにも関わらず、人は時として、一部を全体として即自的な解釈をしてしまう。もちろん僕だってそういうことはある。

 ただ何度もいうように、日々日常的に自分の目の前に現れる全ては「部分」であり、その「部分」の温存と組み合わせこそが、それぞれの結論に結びついていく大切なステップなのだというのが僕の考え方である。

 僕はブログじゃないし、ブログは僕じゃない。

 僕は文章じゃないし、文章は僕じゃない。

 僕がここに、「AはBである」と表現することはいとも容易い。けれども、僕が実際に「AをBだ」と思っているかどうかは、実際には文章だけでは分からない。

 少なくとも僕という人間の本質はここにあって、ここにない。

 どこにあるのか。

 それは、僕にも分からない。

 ただ、一部を一部として認識していただければ、これほどまでに幸いなことはないというだけの話ではある。

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ももちゃん

 「おにいちゃん、やさしいね」

 「いんや、そんあこたぁないよ」

 「ん~ん、おにいちゃんはやさしいひと」

 「ももちゃんはなんでそう思うの?」

 「だっておにいちゃんやさしいんだもん」

 「照れるなぁw でも、お兄ちゃん怒ったらお母さんより怖いかもしれないよ」

 「じゃあおこってみて」

 「ん~・・・」

 「ほら、おにいちゃんはおこらないし、やさしいし、うそつけないもん」

 「どうしてわかったの?」

 「わたしにはわかるの」

 「ももちゃんはすごいね」

 「おにいちゃん、またあえる?」

 「ももちゃんがいい子にしていれば、きっとまた会えるよ。いい子にしていれば、沢山いいこととか、いい人が集まってくるんだよ」

 「わるいこだとどうなるの?」

 「悪い子だと、沢山嫌なこととか、悪い人が集まってきちゃうんだよ。おにいさんにも会えないかもしれない」

 「じゃあもも、いいこにしてる!」

 「お父さんとお母さんのいうことをちゃんときいて、ご飯もちゃんとよく噛んで、いい子にしてるんだよ」

 「うん!」

A

 木村さんのりんご畑で出会った5歳の女の子「ももちゃん」。自分の背では届かないりんごの実に必死に手を伸ばす姿が、今でも印象的に頭の中に残ってる。

 見るに見かねて僕がりんごを採ってあげると、

 「おにいちゃんありがとう。ももちゃん、げんまいさいしょくしてるんだよ!」

と、突然言い出した。

 「おぉ、そうなんだ。おにいさんも玄米菜食だよ」

 そういうと彼女は、「わたしといっしょだね!」とうれしそうに微笑んだ。

 その笑顔と眼差しは、言葉では言い表せないほどに澄んでいて、僕はふと、「子供とはここまで美しいものだったのか」と思い知らされた。

 一体、子供のなにが美しいのだろう。

 心か。

 やはり、心だ。

 まるで、雪の降り積もった草原のように、汚れなく、ありのままの無垢なその形。僕が、ほんの少しだけ忘れかけていたものが、ももちゃんの眼の奥底には、きれいにそのまま残っていた。

 純真。

 無邪気。

 言葉ではなんとでも言える。

 でも、あまり言葉での解釈は好きじゃない。

 ただ、彼女と接した数日間で、僕は「心とは一体なんであるのか」ということを、改めて考えさせられるいいきっかけを頂戴することができた。

 子供は、全てをありのままに見ている。色眼鏡を掛けていない。

 僕は今でこそ子供に好かれる「おにいちゃん」になってはいるが、昔はそうじゃなかった。

 子供は、知っている。

 なにが正しくて、なにが間違っているのか。自然的に分かっている。

 幼くて、なにも知らない、子供の心。

 その心にしか見えないものが必ずあって、それが、きっと、本来のあるべき心の姿なのではないか。そう思った。

 子供は美しい。

 美しい、木村さんのりんご畑。

 自然栽培。

 自然栽培?

 未来。

 こども。

 子供こそ、未来・・・・

 僕も、昔は子供だった。

 生まれたときは、誰もがもっていたもの。

 それを、いつの間にか僕は、どこかで落としてしまったようだ。

 そんな、汚れきってしまった僕の手を必死に握るももちゃんの、小さな小さな手。

 小さい手なのに、僕よりも小さな手なのに、僕よりも大きなものを、彼女はまだ、しっかりと握り締めていた。

 また、いつか、会えるよね。

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証拠

 「信じることはむずかしい。だが、信じなければ、何もできない。」

 小吹伸一

 小吹さん、いいこと言うなぁ。

 ということで、

 「じぃくさんはなにをもってユダヤとか、朝鮮人とかいうんですか?」

 と聞かれて僕も困ってしまったことがある。

 なぜなら、僕自身の手元には池田大作や小泉純一郎が朝鮮系の血筋をもった人間であるという「確固たる証拠」などなにもないし、断言することなどできないからだ。

 そう書けばきっと、「んじゃぁ証拠もないのに適当なこと書くなよ」と言われてしまうだろう。

 確かにそうだ。おっしゃる通り、僕はいい加減な人間。

 ただね、一つ思うのは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット。この程度しか与えられていない僕ら一般大衆が、確証をもった情報を果たして一生のうちどれくらい手に入れることができるのだろうか?ということ。

 そりゃぁ身近で些細な日常的なことであれば、ある程度時間をかければ確証を得られることはいくらでもあるのだろう。ところが相手は世界を股にかける権力集団「国際金融資本」だ。そんな連中相手に、一個人が確証をもった100%の事実情報を入手することができるだろうか。少なくとも僕には無理である。

 とにかく今の世の中嘘だらけなのよ。

 「証拠」が嘘であることなんて山ほどあるし、「証拠がある」ということが嘘であることだって腐るほどある。

 テレビを初めとする既存メディアが報道していることは、常に証拠があって、事実で、現実に存在する事象なのかな。メディアで「在る」されていることは本当に「在る」のかな。メディアで「無い」とされていることは本当に「無い」のかな。僕にはそうは思えない。捏造なんていくらだってある。

 それに、証拠がなければなにもできないというのであれば、僕ら大衆はいつまでたっても彼らの言うなり。証拠をつかめることなんてほとんどないし、そもそも「証拠があること」なんて、世の中には何一つだってないというのが僕の考え方。

 ユダヤ国際金融資本のことにしても、カルト宗教のことにしても、千島学説のことにしても、自然農法のことにしても、僕にはなんの証拠や確証もない。

 でも、証拠がなくたって見えてくるものはいくらだってある。

 だからこそ、今の僕が、とりあえず、「在る」。

 世の中に存在する全てのものは、量子やなんやらで密接に複雑に繋がっていて、全体像が自然界の流れとして蠢いているもの。部分ではなく、全体。部分だと思うのは、ただそれを人間が勝手に部分として切り取っているだけの話で、本当はみんな一緒。だから、なにかを見るには、他の全く関係ない要素も全て加味した上で判断しなければいけない。そして、それを弁証法というのである。

 だから、ユダヤ人と朝鮮人が日本(世界)を支配していると言ったって、全体像はそんなに簡単なものじゃない。ものすごく複雑な事情や、歴史的な過程的構造が関与しているわけだし、一口には語れない。表面的に世界の構造を今日知った人は、「なんでお前はユダヤとか朝鮮とか言うのだ!人種差別か!?」と思われるかもしれないけれど、それは自分自身で情報を集めて、組み合わせて、全体像を把握してみれば、大まかには見えてくることだと思う。僕だって「ユダヤ人と朝鮮人が日本を支配している」なんてことを端的に表現できるようになるまでには、真の構造(それにだって証拠なんてないけど)を知ってから丸1年はかかったし、全体を把握するということは、そんなに簡単なことじゃあない。

 ただ僕は、単純に分かりやすくそう表現しているだけのことであって、「ユダヤ人と朝鮮人が悪なんだ!」などとは微塵も思っていないことだけは理解して欲しい。 ユダヤ人と朝鮮人が世界を支配しているわけではなくて、世界を支配しているのが、一部のユダヤ人と朝鮮人なだけである。

 僕は人種差別をするつもりは全くないし、そもそも人種なんていう「分別」そのものが自然界において無意味なもの。ただ、社会的な構造や歴史的な成り立ちにおいて、民族というものの区分があるのは致し方の無いことで、それを長い歴史の中で上手く利用して操作してきたのが、国際金融資本の連中であることは確かだと「思う」。

 以前にも何度か書いたことではあるけど、どんな民族だって嫌なヤツは嫌なヤツだし、いいヤツはいいヤツ。たったそれだけのこと。

 ただし、世の中を支配している連中(という区分も意味はあまりないんだけど)は、歴史的、宗教的、経済的な背景から、色々な繋がりを持って動いていて、それは全体像を把握していかなければ見えてこない構造。

 そして、その支配構造において利用され、搾取され、迫害され、侵害されてきた一番の被害者は、本物のユダヤ人と朝鮮人の人たちなんだ。

 だから、事実や真実は、もしかしたら一時的に人を傷つけるものかもしれなくても、やはり僕は「本当のことを知る」ということの意味を、これからもずっと考え続けていきたいし、発信し続けていきたい。

 なぜなら、全てを知った上でなにかを考え、感じ、行動することと、なにも知らず、知らされずに、ただ漫然と、作られた枠のなかで生かされ続けることは、全く違う結果をもたらすものだと思うからだ。

 事実や真実は、証拠や論拠の上でなく、指標の上に成り立つ、それぞれの生き様のようなもの。

 大切なのは、自分がどう考え、どう感じ、どう死んでいきたいのか。

 なんか意味わかんないけど、いいたいことは二つ。

 証拠がなくても、全体像を把握することで見えてくることはいくらでもある。

 誰がどう傷つこうが、事実は事実として表現していく必要性がある。

 以上が僕の、いい加減で幼稚な人生観。

 なにが正しくて、なにが間違っているかよりも、自分がなにを感じ、なにに触れ、そして、どう死んでいきたいのか。

 僕にとっては、それだけで、十分過ぎる。

 

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受け入れることと許容することは違う

 即自というのは、他人などの外界を受け入れることのできない、いうなれば赤ん坊のような状態だということはここで何度かご説明させていただいたと思うけれど、今日はその、「受け入れること」と「許容すること(良しとして認めること)」は全く違うものだということを書いてみたいと思う。

 人にはそれぞれ、色々な価値観がある。それは例えば、生まれた持った条件や、生まれ育った環境によっても変わってくるだろうし、出会いや経験によっても大きく変わってくる。僕にとっての何かを受け入れるという行為は、外界である「他人」の多様な価値観や思想を、在るべき存在として受け入れるということに他ならない。なぜなら、多様性や流動性というものは自然界(宇宙)がもつ本来の本質的な要素であって、人間自体もそれらの一部分であるのだから、それを受け入れずにいられるわけはないというのが、今の僕の根本的な考え方だ。

 人は誰でも、世の中で生きていれば、自分と同じ考えを持つ人と出会うこともあれば、自分とは全く違った考え方を持つ人と衝突することもある。ただ、人間という生き物は、他の生物・動物とは違い、ある種高度な社会性に基づいて生活する生き物だから、相手の存在や考え方を尊重し受け入れながら、それら価値観や概念などの差異や相違を上手に刷り合わせて、妥協点というか、中庸な解決策を模索して、前進していくべきものだと思う。

 それこそが僕にとっての「受け入れる」ということの基本的な姿勢であって、善悪の分別や極端な排除を元にしない、(自然界の内の)人間社会に必要とされる「調和」ということなのだと解釈している。

 しかし、世の中に存在する全てが宇宙や自然界の要素だからといって、その全てを受け入れる必要があるのかといえば、僕はそれは全く違うと思う。

 例え、対象の存在や意義を受け入れることが必要でも、受け入れたものが、人間社会というある種人工的な枠組みの中に波紋や混乱を呼び起こすものだとするならば、それは、絶対に許容するべきでものではない。人間は、悲しいかな、(是非や必要性は置いておくとして)一定のルール、例えば法律とか、憲法とか、そういったものに基づいて行動しなければいけない場面も多く、それが人間社会の中で生かされ生きていくことの難しさなのだと思う。だから、それらを大きく乱すような行為や思想などは、決して許されるものではないと思うのだ。

 例えば、リチャード・コシミズさんが自身の体験に基づき訴え続けてきた、○価というカルト組織が実行する「保険金殺人」。

 その、悪意的・意図的な行為によって命を奪われた人たちの死は、果たして「自然の流れ」なのだろうか?

 もちろん広い視野で物事を大きく捉えれば、それは「自然」なのだと思う。

 ただ、前述したように、人間という生き物はある一定の社会性に基づき生命活動を行う要素の強い集団。その枠の中で、その「死」という事実を捉えるならば、それは決して自然なことではない。

 まだ生きられた人が、誰かの手で、誰かの利益のために、命を奪われた。

 僕はそう解釈する。

 そして、それを僕は決して許容することはしない。

 (もちろんそうはいいながらも、そういった考え方に対する定義づけは非常に難しいもので、むしろ無駄で不毛なものだということも分かった上で書いている)







 ここに、一つの白いボールがあったとする。

 多くの一般大衆(テレビ真理教信者)は、そのボールが白いかどうかには興味がない。むしろ、そのボールが存在していることすら知らないのが大衆である。

 そして、ユダヤ外国金融資本に完全に支配された大手既存マスメディアは、その白いボールの存在を、大衆に知られてはまずい場合は一切報道しない。必要性があれば報道するが、必ずしも「白い」と報道するということはできない。「赤い」というかもしれないし、黒い」というかもしれない。

 そして、残念ながら大衆といわれる集団は往々にして「考える力」を持たないから、本当は白いものでも「赤」といわれれば「赤」だと思い、「黒」だといわれれば「黒」と思い込まされてしまう。なぜならそれはきっと、多くの人ははじめからボールの存在に興味がなく、ボールが何色だろうが自分には一切関係がないという日常をベースにしているからだろうと思う。

 ただ、もうこんなことは昔の感情的な僕が何度も書きなぐってきたことで、今の自分にはそれは当たり前のこと。「大衆」という名を付けた集団をなにかと分別化・差別化するつもりはない。

 今日ここで書きたいことは、「なぜメディアはそういう報道・行為」をするのかということ。

 答えは簡単。そうすることで自分たち(権力集団)の利益になるから。たったそれだけのこと。彼らは、その、たったそれだけのことのために、他者を貶めることなど平気でする。ときには戦争を捏造して、何千何万もの人々を間接的に殺害さえする。

 もちろんそれは自然の中に存在する一要素であるのだろうし、必要悪なのかもしれない。だから、僕はそれを受け入れる。

 ただし、それを許容し、許すことだけは、絶対にない。

 僕にとってなにかを受け入れることと、それを許容することは全くもって別次元のことなのだ。
 
 自分のために、他人を貶める行為。

 白であるものを、「赤」や「黒」として拡散する行為。

 それを許容できるか?

 できるわけないだろう。

 そんなことは、人間のクズの行為。偽ユダヤの連中がやっていることと寸分たりとも変わらない。それをどうして許容できるだろうか。

 もちろん人にはそれぞれ違った考え方や価値観がある。だから、白いボールの存在そのものに、なにか異議があれば、それを唱えることは必要だと思う。否定することも構わない。ただ、その存在を意図的に、私欲のために捻じ曲げた形で伝達することは、絶対に許される行為ではないと僕は思う。

 人間は社会性を持った動物で、一定のルールに基づいた「社会」という枠組みの中で生活している生き物。

 全ての存在には意味があって、それを受け入れる必要性はある。

 だが、許容はしない。許さない。

 「違っていることは、『違っている!』と、はっきりと主張する勇気」

 さだまさし氏はそんなことを言っていたけれど、今日僕が言いたいことはその一言。

 「受け入れること」と「許容すること」は全く違う。

 それは、身近なできごとであろうと、ユダヤ国際金融資本が60億を10億に減らそうとしていることだろうと、同じ。

 僕は、絶対に許さない。

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臆病

僕はよく人から「臆病者だ」と言われる。
ここをいつも読んで下さっている方も、恐らくそういった感想をお持ちでいらっしゃるだろう。
とにかく僕は「あ~、アレがもしコウだったらどうしよう」だとか「もしアンナだったら困るなぁ」だとか、常日頃から何かに怯えて生きている。
自他共に認める臆病者だ。

臆病という言葉自体が、決して前向きな言葉ではないし、いい意味で捉えられることはないだろう。でも僕は人から「お前は臆病者だ」と言われても、「あぁ、やっぱりそうなんだな」と思うくらい。そもそも僕は、他人を自分の価値観で観察して、その結果を感想文的に相手に提出するという感覚がないので、人からどう評価されても、それは一つの参考要素でしかないのだ。よく言われても悪く言われても「あ、そう思う人がいるんだ。なるほど勉強になる」として受け止めるようにしている。

僕の知っている人にも臆病者が二人ほどいる。

①一人目
「私は車の事に関してもどんなことに関しても、常に悲観的に考えることから始めています。最悪のケースを想定して整備するんです。そうすれば、最終的に「あー、この程度で収まっててよかったね」で終われるし、逆に楽観的に整備なんかしてたら、本当にマズイ事が起こったときに精神上もあまりよくないし、対応が遅れることが多々あるんです。お客さんの中には、「なんでヤマサキさんはそんなに臆病なんですか?」って聞かれることもあるけど、私は必ずそう答えるようにしています。臆病だっていいんですよ。結果がよければ」

と、これは●ーシ●●●ー●のヤマサキ氏談。

②二人目
「僕は基本的に臆病ですよ。臆病だから、どんな難しい手術の時でも怖くて無難な選択をしてしまう。少しでも新しい技術を使って、最先端の手術をするのがもしかしたらいいことなのかもしれませんが、まだそれが完全に身についていないうちは、どうしても失敗したときのことが頭に浮かんできてしまうんです。だから遠回りしてでも無難で安全な方法を取っています。患者さんにとっては技術よりもスピードよりも安全がなにより必要なことですから。Jeekさんは「臆病者じゃ医者なんかにはなれない」っておっしゃいますけど、今でも僕が医者として続けられているのは、もしかしたら臆病ものだからかもしれませんよ。無難な選択をしていかなければ生き残れませんきっと」

これは心臓移植の権威の●●●ー●氏談。

あ、だからって僕の臆病を正当化しようだとか、カッコイイところに位置付けようだとかは思ってないですよ。僕はただの臆病者。でも、世の中にはこんな臆病者もいるっていうだけの話。ヤマサキ氏も医療関係出身者ということを考えると、人の命を扱うことってのはやっぱり臆病じゃなきゃできないのかな、なんて思うわけである。

政治家も少しは臆病になってほしいものだ。

他人の評価をいちいち気にしていたら、それは多分自由じゃない。

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支えられている

普段はめったに鳴らない僕の携帯電話が珍しく鳴った。
よく人から「着メロとか着歌ってダウンロードしないの?」と聞かれるのだが、なにしろ着しないのだから、メロも歌も僕には全く必要ない。[着信アリ]なんていうホラー映画もあるみたいだが、僕にしてみれば着信アリなほどうれしいことはないのだから、世の中不思議なものだ。

電話の主は、バイク屋の親父さんだった。

「お前最近全然こねぇじゃねぇかよ」
いつもと全然変わらない、威勢のイイ乱暴なセリフから始まる電話。やはり共時性(Synchronicity
)というのはあるらしく、僕も近々ヴェスパのタイヤ交換やオイル交換の作業を入れてもらおうと、スケジュール調整をしていたところなのだ。
「なんの連絡もしてこねぇで」「なにやってんだ」「冗談じゃねぇよ」「知らねぇよ」
出てくる言葉は全て乱暴な言葉ばかりだけれども、電話の向こうで笑いながら喋っている親父さんの顔がすぐに分かる。温かい。もうバイクを降りて半年以上になるのに、お店にもほとんど顔を出さなくなっているのに、僕を覚えていてくれている。僕が乗っているちっぽけなスクータの事だってきちんと把握してくれている。「そろそろオイル交換だぞ。お前の走る距離考えたら時期的にタイヤ交換だろ」
商売だから当たり前だ、と言ってしまえばそれまでだが、きっとそれは違う。邪推だ。もちろんまったく商売抜きではないにしろ、「戸田に一人で引越して元気でやってるのか?」「仕事は忙しいのか?」「大阪いつからいくんだ?」なんて言ってくれるバイク屋の人は普通いないだろう。
色々乱暴なことを言うけれど、結局は「元気か?」と言ってくれているらしい。
仕事中だったけれど、目頭が熱くなる。こんなくだらない10分程度の電話でも、自分は常に自分以外の誰かに支えられて生きているんだ、と再認識させられた。今を生きることに思い上がっている場合ではない。僕は弱い人間だ。でも、こんな状況になったってきっと孤独ではない。決して孤独は寂しいことではないけれども、こんな人が一人でもいる限り、僕はまだ行ける。世の中捨てたもんじゃない。

「お前が買うっていうからこのR1わざわざ仕入れたんじゃねぇか。すぐ住民票持って来い」
「いや、俺そんなこと言ってないし(笑)そもそも200万円もするR1買う金ないっすよ」
「んなもんお前、ロードスター売っちまえば簡単に買えるじゃねぇかよ」
「売らないし、まだ売れないし」
「もうバイク乗らねぇのか?」

今はまだ乗れないけれど、いつかきっとまた必ず親父さんのセッティングしてくれたR1に乗る。バイクが忘れられないんじゃない。親父さんがセットアップしてくれたR1が忘れられないだけだ。必ずライダに戻りたい。

そして、いつかはだれかをささえられるにんげんになりたい

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他人の評価

自分を否定されると怒る人がいる。
自分の買った物を否定されると怒る人がいる。

僕はそんな人達に「馬鹿じゃねぇのか」と言うことにしている。

この類の人間は、結局物事の本質なんか分かっちゃいないし、自分という概念の構築の仕方を知らない、無知無能な人間だ。

自分という概念が構築されていれば、他者の評価なんて気にならなくなる。
イイ物を見抜く眼があれば、自然と物選びにも気迫がでるし、自信を持ってそれを購入することができる。

常に自分と戦い続けることが求められる。
自分次第で、どうとでもなることなんて沢山ある。

人間は、一人では生きてはいけないが、自分を構築するというのはまたそれと別のことだ。

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img20060122.jpg昨日は大雪だった。

犬は雪でも外を喜んで駆け回るイメージがあると思うが、うちの伊歩は違う。去年も雪が降ったときに、僕がはしゃいで外に連れ出そうとしても首輪をつけさせてくれなかった。普段では絶対にあり得ないことなのだが、どれだけ首輪をつけようとしても、僕に向かって唸る始末。ひっぱたいてもダメだった。案の定昨日もそうだった。
どうやら雪が嫌いらしい。
というかカーテンを閉めていて、外が見えない状況なのに、なぜ雪が降っていることが分かるのだろうか・・・
とことん不思議な生き物である。

そして、あと一週間で二年間過ごしたこの我が家ともお別れ。僕と犬だけの引越し。少し切ない。僕は小さいころから、父親の職業柄か、引越しが多かった。四国松山→東京西巣鴨→大阪箕面→東京三軒茶屋→東京板橋。高校以外、最初から最後まで居たことがない。小学校も中学校も卒業アルバムのほとんどには僕が映っていない。今となってはどうでもいいことだが、当時の僕にとっては誰にも言わなかったが寂しかった。
そして、転校生というのは多かれ少なかれ注目される。いい注目のされかたもあれば、悪い注目のされかたもある。僕は後者。よくいぢめられた。転校してしまえば、仲良くなって自分の味方をしてくれる友達や先生もいない。特に東京から大阪へ行ったときには、都会モンということでいぢめられたのを覚えている。教師にまでいぢめられた。最近思うのは、もしかしたら今の僕の、『自分のことは自分で守る。誰も助けてくれない。自分を守る為なら周りを気にしない』という、見る人によっては冷たく映るこの姿勢は、この時代に根付いたものなのかもしれないということだ。でも、僕は極力自分に発生した不具合を人のせいにして生きたくはない。だから更に『自分のケツは自分で拭け。人に助けを求めるな』という考えに陥ってしまう。これすらも、人によっては冷たいと受け取られてしまう。
でも僕はもう、自分を捻じ曲げて生きられるほど若くはない。年をとった。

と、まぁそんな余談は別にしても、僕にとって引越しというのは、常に切ないものだった。せっかく仲良くなった友達と離れなければいけない。慣れ親しんだ町と別れなければいけない。家族とはいつも一緒でも、やはり悲しいのだ。

それにしても、この年齢になって、こんなに悲しい引越しをすることになるとは夢にも思っていなかった。幼い頃からの夢だった自分の愛犬と二人きりだというのに、なぜか切ない。自分の好きな車も一緒なのになぜか悲しい。仕事が変わるわけではないのに、どうしてか苦しい。

また一つ成長した。

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麻薬と僕と法律と

img20060107.jpgここ最近、毎日見たくもない知りたくもない情報を垂れ流しにしているテレビというメディアを呆然と視ていると、必ずといっていいほどフィギュアスケートの話題が取り上げられている。安藤美姫を筆頭に、荒川静香、村主章枝(すぐりふみえ)、写真の浅田真央などの顔ぶれをもう知らない人はいないのではないだろうか?

そんな冬である今、全国のスケートリンクの人気が急上昇しているという。
前年よりも56%も動員数が増加しており、業界全体がうれしい悲鳴を上げているそうだ。

つまり、これがメディア効果。

そしてそれは、戦後の政府が思い描いていた『国民像』。その理想へ向かって戦後教育を行い、国民を調教してきた戦後の日本なのだ。

メディアが右と言えば右へ向き、左と言えば左へ向く。日本国民の96.4%はそういう人間達で成り立っている。そしてそのメディアを動かしているのは他でもない、政治家政府である。
そして、『正しい』だとか『間違っている』などの判断力を政府に奪われた人達の子孫が、僕ら、つまり今生きているその日本国民だ。だから、もうすでにこの国の民主主義は崩壊しているし、過半数以上の国民の判断というものは、残念ながら政府によって操作されたものでしかないのだ。

まぁそんないつもぼやいている周知の事実はここまでにしておく。

話は変わって、僕は槇原敬之という歌手が好きだ。僕が音楽というものに興味を持ち始めた時期から、今でも歌っている数少ない歌手。
しかし残念ながら彼は、数年前に『罪を犯す』という、世間には非常に分かりやすいアピールをしてしまったことがある。

大麻取締法違反容疑。それを聞いた時は耳を疑った。自分の好きな歌手が犯罪を犯したというニュースは、まだ世の中の事をあまり知らなかった当時の若い僕にとってはショッキングな出来事だったのだ。
だからそういう事実があったことを知っている人に、僕が「マキハラが好き」というと、「よくあんな犯罪犯した奴の歌なんて聴けるなぁ。しかも●●だぜ」と、まったく罪とは関係ない要素まで引き合いに出して、彼を侮蔑する人は少なくない。当時の僕も、それに引け目を感じていた。

しかし、今になって考えると、果たして本当に引け目を感じる必要があるのだろうか?と思うようになった。
理由は二つある。

まず一つ目。
僕は、マキハラノリユキという歌手が好きなのだ。槇原敬之という人間を実際に知っているわけではない。だから僕にとっては、彼が大麻を吸おうと、痴漢をしようと、窃盗をしようと、挙句殺人を犯したところで、マキハラノリユキなのだ。
だから罪を犯したところで、歌い手としての評価を下げる必要は全く無いと思っている。
(もちろん罪を犯したことで、人間としての評価を下げることだって、僕はしない)

そして二つ目。
彼は大麻取締法という名の法律、つまりルールを破った。
大麻とは、俗称をマリファナという。マリファナ=大麻 だということを知らない人が結構いるのだが、ではなぜ、麻薬取締法という法がありながら、それとは別に大麻取締法という法が日本にはあるのだろうか。
大麻というのは、麻薬取締法の綴りにある、前略『麻薬及び向精神薬の濫用による保健衛生上の危害を防止し、もって公共の福祉の増進を図ることを目的とする法律である』という部分に、なんら影響のない性質を持っている。中毒性がなく、毒性も低いから、マリファナを吸ったところで、本当の麻薬を吸った時みたいに、中毒症状が出たり、狂って幻覚を見たり、人を傷つけたりしてしまうようなことはないのだ。だから、麻薬取締法で、マリファナを取り締まることは出来なかった。つまりマリファナは麻薬ではないから、別の法律を用意しなければ取り締まることができないモノだったのだ。
(マリファナは一般的に、コーヒーのカフェインと同等程度の毒性だ、といわれている代物であるから、海外では子供から老人までこよなく愛する嗜好品として扱われている。僕はコーヒーも飲まないのと同じ意味合いでマリファナも吸わない。でも、昔の仕事の環境では、愛用している人がいるとかいないとか・・・聴いたことがあったりなかったりな感じで、お、ちょwwwwwwwおまwwwwwwwwwwwwwなにするwwwwwwwwwうわっwwサカタハルミジャン)

そんな、『コーヒーと同じようなもの』を日本が別の法律まで作って取り締まるには当然裏がある。

マリファナは、中毒性は全く無いのにも関わらず、お酒やタバコのような快楽感(?)や安心感(?)や、陶酔感などを得ることができるものだという。(何度も言うが、僕はマリファナを吸ったことはない。それはコーヒーを飲まないのと同じ理由だし、下らない法律でしょっ引かれるのはいやだからだ)そんなイイモノが国中に溢れたらどうなってしまうだろう。
日本政府の大きな財源の一つである、税金をたっぷり乗せた『中毒性が高くて、毒性も高くて、一本1円もしないモノなのに1箱300円もするような、国民の体をどんどん蝕んでいくタバコやお酒』が売れなくなってしまうからに他ならない。

つまり政府は、国民が肺がんやアルコール中毒で死んでも別にオッケーなのだ。それよりも、ソレらが売れなくなることによって、自分達が普段湯水のごとく使っている税金と言う名のおこづかいが減ってしまうことのほうが困るわけだ。だから政府は、中毒性のあるタバコやお酒を国民にどんどん与えて、どんどん税金を乗せ、気付いたころには辞められない人が増え、増殖し続ける中毒者は金を払ってタバコや酒を買い続ける。そしてそんな国民達が死んでいっても、中毒者に支えられたタバコ・酒市場のおかげで、売る側の自分達はウッハウハという寸法だ。
「あー僕はなんてすばらしい国に生まれてきたのだろう」と感激してしまうような理由が、大麻取締法が出来た背景にあるわけだ。

二つ目の理由が長くなってしまったが、つまり僕は
「法律なんて、国のトップの連中の都合でいくらでも作り変えたり削除したりできるものなんだから、そんなルールを破ったからといって、歌い手としての評価を下げる必要は全くない」と言いたいだけ。

そもそも法律というものは、罪と罰の均衡を保つためのもの。
「●●という犯罪を犯した人には◆◆◆というペナルティが待ってますよ~」というものでしかない。「殺人を犯せば懲役何年」「痴漢をしたら罰金何万以下」というようにそれぞれの罪に対して罰の量が決まっているだけの話。

だから、罪を犯した人間を、そうではない人間が、その罪を理由に評価するなんて許される行為ではないし、槇原敬之だって、歌手としても、人としても、全く終わってなんかいない。キチント服役して、罪を償ったのだ。ベットされたペナルティを消化したのだから、世間から言われもないクレームをつけられる筋合いはないのだ。

それに罪を犯していなくたって終わってる人間は腐るほどいるし、そんな人間が溢れかえった今、日本という国自体が終わりを迎えようとしている。
僕はそのことのほうがよっぽど酷評に値すると信じたい。

◆ ダメぜったい ◆
信じる信じないはあなた次第。

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モノ作りのこと

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◆強度偽装の国会質疑…姉歯氏欠席、経緯など不透明◆

これが今の世の中のモノ作りの現状、裏側である。
もちろんまっとうなモノ作り、商売をしている会社だって沢山あるし、今回の件は少し酷過ぎるような気がしないでもないが、大概はこんなもんだろうと思っている。(メディアの大げさな騒ぎ方もどうかとは思うが)

僕も昔よりはまっとうな仕事に就いて、それなりに不景気というものの影響を肌で感じている。確かに得意先からコストダウンの要求は常にあるし、それに少しずつ対応していかなければやっていけないという実情もある。コストダウンをしなければ「他の業者にする」という話になりかねないケースだってあるのだ。でもやはりそれは顧客があってこそのビジネスであって、顧客側の立場を無視するようなコストダウンの話は絶対に来ない。特に建築、客商売なので安全管理は徹底している。

安全は全てに優先するとはよくいったもので、よく建築現場などでみかける安全第一、これは今でこそ安全第一だが、かなり昔は安全第三であったという。第一が利益、第二が効率、だったらしい。利益第一でやっている時代に、あまりにも大きな事故が続いたため、建築業界が軌道修正をしたと聞いているが、これは余談。

しかしこういう世の中だからこそ、やはり買う側にもそれなりの責任が伴うのではないだろうか。タレントを使った豪華なテレビCM、すがすがしいキャッチコピーがデカデカと印刷された綺麗な新聞広告、メーカの「安全です、安心です」というアピール。そんなもの全く本質をつかむ材料になんてなりはしないのに、それを100%盲信してしまう人が多すぎる。モノを買うときに頼りになるのは自分自信の判断のみではないだろうか。メーカの裏を読む力をつけなければ必ずこういう被害者は今後も出つづけることになる。家でも車でも家電品でもだ。

もちろん商売、ビジネスというものは悪く言えば建前で人からお金を頂戴する行為。元来不謹慎なものなのだ。だから、どんな商売だって必ず裏があるわけで、それが直接悪だというつもりはない。ただ最近のビジネスの裏はあまりに酷過ぎるモノが多い。買う側使う側のことを完全に無視したビジネスのなんと多いことか。一歩間違えば詐欺になりかねないものや、人命に関わる悪質なものなどが渦を巻いている。

やはり物というのは、作る側の顔や意図が見えてこなければいけないとおもう。今はあえてその顔を隠そうとするメーカがほとんどだが、僕は作る側の顔が見えてこなければそのメーカの商品は絶対に買わないし、見えてきた意図が少しでも納得のいかないものであればやはり買うことはない。今の時代、そのメーカの商品を買わなければ困るというようなことはほとんどないし、どのジャンルでも必ず真面目な物作りをやっているメーカはある。

騙されないためには、自分のアンテナをもっと大きく広げて、裏を読む力をつけていかなければいけない。メーカが「~~だ」と言ったから買ったんだ、なんて言っている場合ではない。
知らされなかったから知りませんでした、という子供のような言い訳は通用しない。

消費者はもっと
無知も罪であることを知らなければいけないのではないだろうか

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尊厳

僕は、どんなに今対面している人間が自分にとって気に食わない人間でも、決して批判や文句、不平不満を相手に伝えることはない。人間関係というのが立場の違いと見解の相違にて成り立っている物である限り、自分の不満が解消されることはつまり個人のエゴでしかない。自分の不満を相手に伝えて、それを修正、矯正させるということは、相手を自分の都合に合わせようとする、いわば相手を否定することにもなり兼ねない行為ではないだろうか。もちろんそれが、相互関係以外での不調和をもたらすものであればある程度は仕方のないことなのだろうが、多くの場合それは意味をなさない。

相手を否定する行為程愚弄で不毛な行為はないのだ。

では僕が否定する立場に立った場合はどうするだろうか。
僕はその相手を無視する以外にない。
否定などするくらいなら、無言で立ち去ったほうがよっぽどマシだ。

そう。

その場を立ち去ればいいんだ。

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モノの価値

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「自分で物の価値を決めることができないから
                         金額で選ぶんだ」


僕が出入りしているバイク屋のおじさんとブランド品の話になったことがある。

(ブランド品を安く買いたいと思っている人はできれば続きを読まないほうがいい)
「バカ野郎おまえ、40万のプラダのバッグを28万で買ったら
               もうそれはプラダを買ったことにならねぇんだよw」


氏はそう言う。
別に僕がプラダのバッグを買ったわけではなく
そういう勘違いをしている人が多い、といいたかったらしい。
(僕はバッグに数十万も払う趣味はもってない。ユニクロの3千円が精一杯である)
氏はバイクだけでなく、車やその他諸々、世の中の裏事情に妙に詳しいおじさんだ。
色々と面白いことを教えてもらえるので、用がなくても入り浸っている時期があった。
(EQ初めてから行く機会が減ってしまった)

「だってお前、40万円で売ってるバッグの原価いくらだとおもってるんだよ3万~5万だぞ」

ウソかホントかは分からないが、某ブランド会社の幹部が出入りしている店だから
おそらく本当なのだろう。
(世田谷という場所柄か、偉い外人さんや、大企業のお偉いさんが結構来店している店なのである)

つまり、ブランドといわれるメーカの商品を買うという行為は
数十万円という決して安くない金額と引替えに
誰でも知っている標準品という安心感を購入することの他ならない。
40万円を支払うという行為そのものがプラダでありヴィトンなのだろう。
原価を考えたら、安く買うことに意味がないというのもうなずける。

さらに氏は
「ブランドメーカからすれば、自分のところの商品買う日本人なんて
ただの貧乏人としか思ってないぞ。あいつらが本当に客だと思ってる人間は
ごく一部の富豪でさ、自分達から使ってくださいって持っていくんだよ。
日本で代理店立てて売れば、ボロ儲けできるから売ってやってるってだけだ。
金額に踊らされて、買わされてることに気づかなきゃだめだな」
とも言っていたのを覚えている。

これに似た話を僕は別のところで聞いたことがある。
車のサスペンション業界では通説らしいのだが

「安ものでも値段を高くすれば売れる」らしい。

物自体の本質ではなくて、見た目をピカピカにして色をハデハデにして
値段を高くすれば、売れるらしい。
それを氏に話したら「バイク業界でも当たり前だ」と嘲笑された。

どうやら日本は世界マーケットからも
値段が高いものが売れる国と見られているらしい。

だから、原宿や表参道の一等地と呼ばれる場所に
ブランドメーカの巨大おしゃれ店舗が立て続けにオープンするのだろう。

ブランドメーカより安くて長持ちするメーカは沢山あるのに
なぜそんなにブランド品がいいのだろうか。
僕にはいまいち理解できない。

僕が3万円で仕入れた電子レンジを、40万で販売したら
会社をクビにされるのが普通の商売なのだろうが
元来商売とは不謹慎なものなのだ。

こんな話をしながらも、バイクをいじる手が止まらない
江戸っ子職人の油だらけのツナギ姿の背中を眺めるのが僕は好きだ。

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いい商品

僕は自分が気に入って使用している商品が
量販店に並んでいないのをみるとニヤリとしてしまう。
量販店というのは、沢山売れる商品しか置かない。
少ししか売れない商品は置かないのである。

では、「沢山売れる商品」というのはどういった要素をもっているのだろうか?

・安い
・見た目(味?匂い?)がいい
・聞いたことのあるメーカが作っている
・多種多様の需要を、まんべんなく満たせる性質を持っている

と僕は考えているが、僕自身は「売れる商品」が嫌いである。

例えば、僕はラーメンが大好きだ。
こってりで油っぽくて味が濃くて麺が太くて固くて・・・・そんなラーメンしか食べない。
しかし、僕がよく通うラーメン屋に行列ができたことは一度もない。
ウケないのである。
沢山の人の舌に合う味のラーメン屋にはお客が集まる。
僕も沢山そういうラーメン屋のラーメンを食べてきたが、マズイ。
マズイという表現が不適切だとすれば、少なくとも僕の舌には合わない味。

元々ラーメンなんて、大勢の人が好き好んで食べるようなジャンルの食ではなかった気がするが、とにかくマズイ店が増えた。

分かりづらい文章になっているが、なにが言いたいかというと
「沢山売れる商品」は、本当にそのジャンルを好きな人の要求を満たすことが無いということである。

もちろんそうではない物も沢山あるし、殆どの物はそうあるべきだと思う。

しかし、絶対にそうなってはいけないジャンルというのもある。
僕にとっては 犬のエサ がその一つである。

具体的なことはリンク先を見ていただくとして、割愛するが
僕にとってイイ商品になりうる物の大まかな条件を上げてみる。

・安くはないが、決して高級ではない
・見た目は地味・シンプル
・聞いたことのないメーカ品
・テレビCM/雑誌広告は存在しない
・大抵の場合、手に届く範囲には売っていない
・しかし、きちんと売れている
・まったく畑違いのジャンルのものだったりする

こんなところだろうか。

おかげで僕の犬は、
目ヤニ知らず
肥満知らずで
毛艶ビカビカである。

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実験

興味深い実験の話を聞いたことがある。

ある一定の水槽を一つ用意して、その中に雌雄のネズミを一組入れ飼育する。
エサも水も常に一定の量を毎日用意して与える。

始めは二匹では食べきれない量のエサも、大きすぎるスペースも
番の間に子ネズミが生まれ
だんだんと足りなくなってくる。
ネズミは増え続ける。
それでもエサや水は増やさないし減らさない。
水槽の大きさも変えない。

ある時期を越えると水槽の中のネズミ達に変化が起きる。

共食いを始めるネズミ。
ホモになるネズミ。
レズになるネズミ。
自分を食いちぎって自殺するネズミ。
原因不明の奇病にかかり死んでしまうネズミ。

僕はこの実験の話しを聞き、光景を想像してゾッとしたが
何かに似ていると思った。
僕が生きているこの世の中と同じだということに気づいた。

つまりこのネズミたちの水槽は現代社会の縮図ではないかと。

今の世の中、過密なんだろうか。

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おもしろい思考

人間という生き物は道具を使う生き物である。
道具を使わなければ生きてはいけない。

ナイフを使えば、手では切れない木でも切ることができる。
自転車に乗れば、走るよりもずっと速く走れる。
飛行機に乗れば空を飛ぶことだってできる。

そう考えると、優れた身体能力を持つスポーツ選手に
「天才」「すごい」
という評価を下すことに、少しだけ不安を覚える。

確かに、人ができないスピードで走ることや
人が持てない物を持つ腕力などは、評価されることなのだろうが
それは「すごい」ではなく、単純に「話題性」なのではないだろうか。
車に乗ればもっと速いし、クレーンを使えば何だって持ち上げることができる。
それが人間。

随分昔に常駐していたチャットチャンネルに、スポーツ大好きッ子がいた。
彼は僕のその考えに腹を立てたらしく一言。

「天才選手はみんな、ジークより収入があるんだぞ」

面白い思考もあるなと思い、笑った。

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