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「小さな犯罪でも動機のわからないものは沢山あります。大きな戦争でも、それは同じことです。テロだって、突き詰めていけば、動機なんてわからない。ただ、正義を装った言葉として解釈されているだけです」
「恨み辛みがあった、というものが多いと思うが・・・・」
「そう捉えられているだけです。どうしてやったんだ、ときかれれば、むしゃくしゃしてやったとか、頭に来ていたとか、なんとなくその場で思いついたことを話す。それが動機というものになった。まったくの幻想ですよ」
(中略)
「社会を恨んでいる、日本という国家を恨んでいる、人間のすべてを恨んでいる、幸せな状態を恨んでいる、自分以外のものすべてを恨んでいる・・・・・。なんだって言えます。言葉にすれば、どんなものでも理由にできる。そうすれば、どんなに不可思議なものではあっても、社会はとりあえずは納得してくれる。少なくとも、動機という空欄を埋めて、ファイルを片付けることができるというわけです」
「うん、わからないでもないけどね、それはかなり、極論ではないかな?」
「では犯罪が起こって、その犯人が捕まったとき、どうして動機を尋ねるのでしょうか?動機が正しければ、その犯罪が許されますか?」
「少なくとも、まず正当な理由があるものならば、裁判で罪が軽くなる可能性はあるんじゃないかな。どうしようもなくて犯行に及んだ、ということであれば、それなりに酌量されることになる」
「酌量することで、社会は何を得られますか?」
「うん、そうだね・・・、人に対する優しさかな」
「しかし、たとえば、殺された被害者の家族は、その分だけ、憎しみが増すでしょう」
「そういうことはある。たしかに、それはある。たとえば、犯人が未成年だったとか、心神喪失状態だったとか、そういった場合にえてして起こりえる問題だ」
「動機を明らかにすることで、あるいは、動機を分析することで、社会はその犯罪を未然に防ぐことができるでしょうか?」
「それも、ある程度の効果は期待できる、あるいは、可能じゃないかな。不平等があるならば、それを正して、そういった不満が起こらないような社会を作れば、犯罪を減らすことができる」
「そういった犯罪ならば、既に減っています。今はただ、大衆は犯人の動機を知って、同情したり、あるいは怒りを新たにしたり、呆れたり、そんな反応の感情を抱きたい、ただそれだけのことです。そうじゃないと、どう反応すれば良いのかがわからない。反応ができないものは収まりが悪い、というだけなのです。結局は、収納の問題で、レッテルを貼ろうとしているだけです」
「うーん、まぁそういった面はあるかもしれない。これだけニュースがショーになってしまうと、その場かぎりであっても、とりあえずの落としどころを用意する必要があるってことだね。実際には、裁判があって、ずっと長い期間かけて取調べや検査、診断が必要だ。でも、とにかくまずは言葉による一応の結論を欲しがる、というわけだ」
「そのとおりです。テロや戦争においても、それはまったく同じです。人は、言葉で解釈し、その言葉で怒りを覚える。こうして怒りを煽り、人を動かして、戦いを始める。あるいは、自分さえも、その言葉に酔ってしまう」
「そういうふうに、君は考えているんだ。冷めているね」
「冷めている、というのも、解釈ですよ。それで納得したい、というのであれば、けっこうです」
講談社ノベルス 森博嗣:著 「εに誓って」より抜粋
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人間というのは、事実を事実としてありのままに冷静に受け入れることすらできず、自分の言葉や価値観という至極感情的で微小なフィルタを通して、自分の納得いく形に消化しないと飲み込むことのできない、脆弱で愚かな生き物。
僕は自分のその脆弱さが嫌いで、それを克服するために、全てを滅却し、全てを捨て、今ここにいる。
あなたは、まだ、人間?
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「理屈はいつだって通ります」
これは僕が好きな、ある小説家のストーリにでてくる主人公が言った台詞。確か父親に正論として言ったことを「そんな理屈が通るか」と恫喝された後に言った台詞だったと記憶している。
さらに同作者は、別の登場人物にもこう言わせている。
「理屈なんていうのは、あとから付いてくる人を簡単に、分かりやすく導く為のものでしかないんだ。だから、ある一つの物事を始めて達成した人間にとっては、一切の理屈なんて存在しない」
僕はよく人から「理屈っぽい」だとか「屁理屈屋だ」とか言われる。確かに自分でも、そういった第三者的評価が下るのもおかしくないような性格であると思うし、こうして今書いている文章や考え方も、受け取る人によっては理屈っぽいと思れることだとは自覚している。
ただまぁ前者の「理屈っぽい」という評価はまだいいとしても、後者の「屁理屈屋だ」という評価はいささか気に食わない。というのも、こういう台詞を言う人に限って、自分が理解できない事柄に対しては全てそういう評価しかできていないからだ。自分の理解力や情報処理能力を越えた出来事の全てをいとも簡単に屁理屈にしてしまう。そもそも屁理屈なんていう言葉は、弱者の叫びでしかないと僕は思うのだ。なぜなら僕の感覚では 屁理屈=正論 という図式が出来上がっているからに他ならない。
さらに、自分が理解できない理論が展開されると、「それはなにかの宗教か」などと、見当違いのことを本気でいう人もいるから恐れ入る。
確かに僕の思考回路は、常に理詰めでなければ気がすまない感がある。かっこよく言えば完璧主義とでもいうのだろうか。そういう性質はもちろんいい時もあれば悪い時もある。特にそういうことすら理解できていなかった昔は、どんなものに対しても理詰めで挑んで、大きく失敗したこともある。でもそれが正しいことだと思い込んでいたのだ。
ただ、今は違う。
理論的に解釈しなければいけないことと、そうではいけないことをある程度判断することが出来るようにはなりつつある。だから、人から「理屈っぽい」と評価されたとしても、その対象に対してその姿勢が正解であるならば、それを曲げることはない。けれども、人から指摘されて、「確かにちょっとアレかな・・・」と思ったことであれば、軌道修正をかけて、ある程度の余白を模索することだってできる。そういう自分の現状を踏まえた上でも「屁理屈だ」と言う評価に対しては嫌悪感が残るのだ。
ほとんどのケースで「屁理屈」という言葉を使う人は、理論的な要素を求められる重要な局面で、失敗している。仕事でも趣味でも、そういうシーンにはよく出くわすのだ。それはなぜかと言えば、先にも言ったように、普段から自分では出来ない理論的な思考に対して、「屁理屈」という端的な評価をしているだけで、それを状況ごとに公平な評価をすることが出来ていないからだ。それができないのだから、当然当人にだって、そういう能力は全くつかない。相手を真っ当に評価することができないのだ。
どのような事柄を行うにせよ、相手や対象を自分の価値観のみで評価することは、やはり愚かしい。そんな評価は相手にも全く届くものではないし、自分の視野や能力の進歩すら妨げる原因になりかねないのだ。
だから僕は常に
なるべく物事をありのままに、そして真鍮に受け止めるよう努力を止めない。
それが、自分を救う最良の手段だと信じているからだ。
どんなにくだらなく思えるようなことにも、必ず自分が必要としているパズルピースは紛れ込んでいる。それを少しでも多く取りこぼさずに前に進むには、きっとそれしかない。
本当のことを知るということは、いつだって周りからバカにされ、それでもめげずに前進しなければいけないように、非常に疲れる行為なんだろう。
そう思う。

僕がまだ、音楽業界という世界に身を置いていたときのこと。
ひょんな事から、お寺に集まるご老人にギターを教えるという、なんとも酔狂な仕事をもらったことがあった。もちろん仕事といっても、相手が相手なのでボランティアだ。
目の当たりにした、エレキギターを持った十数人のご老人、という絵は、当時の僕・・いや、今の僕にでさえ圧巻だろう(笑)
朝から午前中にかけてギター教室(?)を終えて、午後は昼食をかねてのお茶会なようなものだった。そのお茶会で、隣に座っていたお寺の住職に、仕事についての悩みを相談していた時のこと。話の流れはあまり覚えていないのだが、住職がこう言ったのを今でも覚えている。
「Jeek君、いいかい。例えば君の周りの身近な人達が、君より優れた人ばかりだったとしよう。でも君はそれを思って、自分の無能さを嘆くことはないんだ。君より優れた人達は必ず君を助けてくれる。そのために君の傍にいるんだ。もちろんその逆だってそうだ。君の周りにいる身近な人達が無能だったとしても、それを嘆いちゃいけない。それは君が他の人たちよりも優れているなによりの証拠なんだ。だから嘆くよりもまず先に、その周りの人達を助けてあげるべきだ。そのために君には力があるんだ。そう考えてみてはどうかね」
仏教に、こういう内容の説教があるらしい。
当時色々と悩んでいた僕を、一歩前進させてくれた住職のありがたいお言葉。
今でも忘れてはいません。

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